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「別に気にしてないよ。明日になったら大事なものが無くなってるかもしれないなんて、あの頃から別に当たり前だったし」

だからさ、エリオット。君がそんな顔しなくてもいいんだよ? そう宥めるように笑ったリーオに、名を呼ばれたエリオットはなおのこと不快そうな表情で舌打ちを一度繰り出した。

彼の従者であるリーオは、自分の事柄に関して殊更に無頓着だ。主人であるエリオットの機微には他者の誰より――ともすれば本人よりもよく気が付くというのに、こと自分の怒りや悲しみに対しては、すぐに何でもないふりをしようとする。

「……ったく、会った時から何にも変わっちゃいねぇな、おまえは」
「そう?変わったことなら無いわけでもないけど」
「……本当かよ」

問うたエリオットに、リーオは相変わらずの口調で「さあね?」とそっと微笑する。手元にいつも携えている書物は今日に限って姿を見せず、手ぶらの彼はどこか、いつもよりもまだ頼り無さそうに見えた。

今朝方もたらされた唐突な報せは、ナイトレイの屋敷にて秘密裏にリーオへ――必然的にエリオットへも伝えられたものだった。「フィアナの家の子供が遺体で見つかった」と。使者がそう告げたときのリーオの表情は、眼鏡向こうに隠されていたとは言え明らかに動揺していた。家族同然の人間、ましてや幼い子供を失ったとなれば、推し量るにも痛ましい心境であることは明らかだ。

リーオはかつて違法契約者の被害者として、フィアナの家で数年の時を過ごしていた。まだそれほどの歴史も刻まれていないその一見慈悲深い施設で、彼は今も多くの子供たちから慕われている。

「んー、あの子はさ」
「……あ?」

釈然としない風のエリオットに、表情を動かさぬままでリーオは虚空へ声を落とした。いつもと幾分も変わらぬような響きの声音は、けれど、いつもののんびりしたそれより少しだけ鋭いようにも思わせる。

「……未来なんかまるで見えてなかったんだ。サブリエにあるあの施設じゃ、夢なんて見てられないから」

だから、逃げ出したくなる気持ちも分からないではないよ。至って穏やかに述べられたリーオのそれを受け取って、エリオットははっとしたような表情で彼の方を見やる。

人はたとえたどり着きたくないと願う結論にでも、時としてたどり着いてしまう時がある。だから、そう。今こそがきっと、まさにその時なのだろう。

「リーオ、まさか……」
「……納得した?」

そこでようやくエリオットに横目を流したリーオの瞳は、これまでのどれよりも悲しそうな彩りをしていた。彼の言葉が暗に示す理由を、聡いエリオットが気づかぬはずは無い。廃墟同然のあの場所に場違いに立った純白の施設は、ある人間にとってはただ不自由なだけの牢獄へと変わる。

絶望のあまり自由を求めたその先に見つけた答えが、つまりはそれしか無かったと言うことなのだろう。

「まぁ本当はね、今までにもあったんだよ。公表してないだけでさ」

そう続けたリーオに、エリオットは言葉を荒げかけて間一髪で呑み込んだ。確かに今までにも、あの施設で子供が死んだと聞かされたことは何度かあった。けれどそれは病死であったり、アヴィスの奥地へ踏み入ったことによる事故死であったり、ともかくどれもそれほど悲観的なものではなかったはずだ。

部屋の開け放った窓から吹き込む風で、掛けられている緑色のカーテンが揺れた。そこから見える景色は青く、今日がまごうことなき晴天であると分かる。

「……怒んないでよ、エリオット。つい喋っちゃったけど、これって元々他言無用だからさ。もちろん、ナイトレイ家の君にでもね」
「おまえな……それじゃあ何だ、あの施設は子供の自殺を隠蔽し続けてきたってのか」
「うん、そうだよ」
「……!」
「……そうだよ。ああ見えて薄情なんだ、結構」

でもさ、子供は不利な立場だから何も言えやしない。そう諦め気味に呟くリーオに対して、エリオットはひどく反応に難儀させられた。誰も何事も発しない沈黙の訪れた部屋で、リーオは特に居心地悪そうな様子も見せずに息をつく。

優しいんだね、エリオットはやっぱり。自ら確かめるように落とした声に寂しそうに笑って、しばらくしてからリーオは続けた。

「ナイトレイ家があの施設を慈善事業として経営しているのは、君も何でか分かるよね?」
「……ああ。名声が目的だろう」
「正解。……だから外側さえ繕っておければそれでいいんだ。実際の中身なんてどうでもね」
「……一応言っとくが、今ナイトレイに喧嘩売ってるぞ、おまえ」
「知ってるよ。いいじゃない、今は君しかいないんだから」
「あのな……」

仮にもナイトレイ家の嫡子であるエリオットに向ける文句としては、一連のリーオの言葉はいささか凶器に過ぎる内容ではあった。けれど彼は彼でようやく少しの怒りらしきものが滲み出てきたところであったし、エリオットはエリオットで、既に身内の言葉より信に足る物があることを知っている。

お互いを利用し利用されることが常識となった世界の中で、無条件に信頼を寄せられる人間をみすみす手放すつもりも無い。今では親でさえもを疑うことを覚えたエリオットにとって、自家の悪評を正すことなどそれほど重要ではなくなってしまっていた。

それよりも、自分を理解し付いてきてくれる人間を傍に置いておくことの方が、今となっては何より確かと思えるほどに。

「ま、世の中には違法契約者の家族のことを汚らわしいと見る人間も居るしね。……って、これはエリオットも知ってるか」
「……あぁ、まぁな」

まだリーオが従者になったばかりの頃は、エリオットが共に居る時でさえ、リーオに対して毒の滲んだ言葉を投げ掛けてくる人間がごまんと居た。最近では彼の献身ぶりに何も言えなくなったのか表立った酷評は無くなったけれど、今でも彼に対して侮蔑の視線をちらつかせる人間は多い。

そのたびに決して上手くは無い気遣いを試みるエリオットに苦笑するリーオは、それでも彼に随分と支えられてはいたようだ。

「……リーオ。正直、おまえはあまり自分を言葉にしないから、オレとしてはいまいちどこまで踏み込んでいいか分からない時がある」
「そう?よく分かってると思うよ、エリオットは」
「それはおまえがオレの言いたいことを上手く解釈するからだろうが」
「でも、元は全部君の言葉だし」
「……そういう問題かよ?」

がっくりと肩を落とすエリオットに控えめな笑みを送って、リーオはふと、エリオットに背を合わせるようにしてもたれかかる。突然掛かった重みにエリオットは一瞬驚いたような表情をしたけれど、寂しげなその様子に別段拒むことはしなかった。

「……エリオット」
「ん?」
「君は、初めて会ったときのことを覚えてる?」
「オレがおまえとか?」
「うん、そう」
「そりゃ覚えてるぞ。おまえ、俺とまともに口も利きやしなかったじゃねぇか」
「そう、その時の話。ちょっと言い訳させてもらってもいい?」
「……言い訳?」

改まった彼へ身構えたエリオットに、珍しいほど話しにくそうに黙り込みながら、リーオは先を言えずにしばしの間躊躇する。日頃と異なる様子に怒る気力など湧きそうにないエリオットは、辛抱強く彼が話し出すのを待っていた。

「僕はね、あの日、家族をひとり見殺しにしたんだ」
「何……?」

直後、放たれた言葉は予想だにしないもので、エリオットはつかの間言葉を失ってしまう。初めて彼らが出逢ったあの日、サブリエにはひどく冷たい雨が降りやいでいた。決して青に染まることの無い灰色の空はなおのこと淀み、あの時はただ、重苦しい音ばかりが響いていたものだ。

その日に初めて邂逅を果たしたエリオットがリーオを気に入り、後に彼は従者としてナイトレイ家に迎え入れられた。あの日の出来事はたったそれだけで、他に特筆すべきことは何ひとつ無いと思っていたのに。

「……身投げしようとしていたあの家で一番新入りだった子供を、僕は止めなかったってこと」
「な……」
「それだけ君に言えてなかった。ごめんね、黙ってて」
「……それも、緘口令だったのか?」
「うん、一応。だけどあの子を止めなかったのは僕の判断だよ。……でもさ、後悔するんだよね。今になって」
「リーオ……」

絶望的な目をした子供を、見過ごしてやることが優しさだと思っていた。牢獄に縛り付けておくよりは、最後の自由くらいは選ばせてやった方が良いだろうと。

けれど、それは彼自身もまた絶望に近い感情を抱いていたからこそ選ぶことの出来た選択肢だった。どんなに苦しくとも、生き抜いてさえいれば。そうすれば、いつか自分のように心から信頼出来る人間に出逢えて、あの子供も見違えるように幸福な生き方が出来たのではないかと、リーオはおそらく悔やんでいるのだろう。

「あのな、おまえは考えすぎだ。気の毒ではあるが、死ぬべくして死んだ命だと思えばいい。……おまえが手を下したわけじゃないんだ。そういつまでも気にする必要はねぇよ」
「……エリオット。……うん、そうだね。……ありがとう」

優しいね、君は。本当、不器用なのが勿体ないくらいだ。心の中で呟いて、リーオは悲しみ混じりにそっと微笑む。何年も、何年も言えなかった重荷がようやくほどけて、彼自身も驚くほど、その心には軽さが感じられていた。

代わりに半分を背負わせることになったエリオットに対しては、それでも不思議と引け目を感じなかった。自分を信頼してくれていることに確信があるのか、それとも自分の相手への信頼が絶大にすぎるのかは分からない。けれど、少しくらい共有するものを持たせても疎ましがられはしないと信じていたい気持ちは、そこに幾らか存在するのかもしれない。

「そうだ、さっき最初の方に話したことだけど。あれ、ちょっと嘘があるんだ」
「最初の話?」
「明日になったら大事なものが無くなっているかもしれないないのは当たり前だ、って言ったよね」
「ああ、確かに聞いたな」
「……だけど僕はさ、君を失くした時だけは普通でいられなくなると思うよ」
「……!」

たぶんだけど、間違いなくね。言い切ったリーオに、エリオットはしどろもどろになって何一つとして言葉を返せずにいる。冷え切った心が暖かさに満たされた頃、からかうようにリーオは言った。

「まぁ、逆は逆で心配だけどね。僕が死んだら君に取り憑いてみようかな。それはそれで面白そうだし」
「あのなぁ、気味悪いこと言ってんじゃねぇよ。……それに、それは有り得ねぇだろ」
「ん?」
「おまえは死なせたりしねぇよ、オレがな」
「……ぷっ」
「あぁ!?何でそこで笑う!」
「いーや?エリオットらしいなと思って」

でもそれ、外ではあんまり言わない方がいいよ。面白いから。笑いながら忠告したリーオに、不服そうなエリオットは照れつつも「言ってろ!」と投げやりに言い放つ。憎まれ口ですらすべての悪感情を消し去ってしまえるお互いの存在は、今や無くてはならない日常だ。

「……あ、ついでだから言っておくけど」
「何だ?」
「今日のこと全部、君を信用して話してるんだからね。……バレたらさすがに解雇じゃ済まないと思う」

だからさ、つまりは君も共犯ってこと。そういたずらっ子のごとく呟いたリーオへ、エリオットは慣れたように溜め息をひとつ、こぼした。

「……相変わらず横暴な従者だな、おまえは。任せとけ、他言はしねぇよ」
「うん、そうしてくれると助かるな。……ありがとう、エリオット」