ゆらめくひかり

夜が人間を感情的にさせる、というのは事実らしい。思って、リーオは窓向こうの月夜を眺める。薄暗く明かりを落としたこの部屋には今、月の光しか映らない。それがやけに明るいものだから、妙に浮ついた気分に囚われてしまう。

上がりきってもいないけれど、下がりきってもいない。ひどく苦しいような気がするのに、どうにも高揚感を隠せない。

そっと息をついてから、リーオは同じく部屋中央に位置取るエリオットを見やった。少し物憂げに手元の書物に視線を落とす彼の横顔は、青の光に整って、瞬きするほかは微動だにしない。

「……変なの」

ぽつり、ほとんど音もなく呟けば、身の回りの空気だけが少し震える。少し距離のあるエリオットには届かなかったらしい。それにほっとする反面、少しだけ物寂しい気持ちになった。

かねてからエリオットとリーオにとって、言葉の無い時間が別段苦になることはなかった。会話など無くとも時間を共にすることは難しいことではなかったし、むしろ、四六時中を言葉で埋める行為こそ、二人にとっては少し億劫だった。日頃から彼らはどちらかと言えば静寂を好む二人であったし、何より、互いの存在は当たり前のものだったから。

けれど、こうして夜を迎えると、どうしてなのだか落ち着かなくてたまらなくなることがある。そっと溜め息を落としつつ、リーオは自身のざわつきを咎められもしない。

――何となくぼんやりとして美しい、この非現実的な雰囲気に酔ってしまうのだろうか。夜半というのは少しの緊張感と、張り詰めてどこか独特の切なさをその身にもたらす。柄にもなくリーオの人恋しさに限界が来そうになるのだって、それほど不思議なこととは言えないのかもしれない。

「……ねぇ、エリオット」

そこまで延々と思考してから、リーオはエリオットの名を呼んだ。彼もまた月夜に絆されているのだろうか。それほど機嫌を損ねることもなく、呼び立てられたエリオットは「どうした」とだけ言って、振り返ってリーオの言葉を待ってみる。

「……ちょっと構ってよ」

そうしてリーオが落とした一文は、実に単純で純粋な願いだった。暗く冷え込んだ部屋にじっとしていると、どうしてだか、無性に人恋しさに打たれてしまう。――端的に言えば、ぬくもりがいとおしく、恋しくなる。けれど素直にそうとは言えないから、こんな言葉で誤魔化している。

「ったく、おまえは……」

呆れたようにエリオットは息をついて、手にした書物をぱたんと閉じた。テーブルに置かれたそれがコトリ、乾いた音を立てる。

「いいでしょ、お願い」

追い打ちのようにリーオが言えば、エリオットが観念したようにやれやれ、といった表情をして、視線だけで「こちらへ来い」と促してみせた。理解したらしいリーオは少しだけ余裕なく微笑んで、傍に身を寄せてひとまず、エリオットの読んでいた本を手に取る。

「これ、文学?……あんまり君の好きそうな本じゃないけど」
「と言うより、おまえの好きそうな本だな」
「ん……ご都合主義なんだ?」
「かなりのな。オレはこういう唐突な展開は好かん」

どこか憮然とした様子で語るエリオットを横目に、リーオは渦中のそれをぱらぱらと捲ってみる。

日頃から、リーオ自身は多少のつじつま合わせを嫌うことはあまりなかった。所詮は物語なのだし、常識を守るあまり煮え切らない終わり方をされるくらいなら、少しくらい奇跡が起こったって構わないと思っていた。

――ついでに言えば、正義が悪を滅ぼすだけの、あの単純な構図があまり好きではなかった。他者の正義を無視した一方的な正義感を受け入れたいと思えないのだ。結果、敵方が奇跡みたいな改心をしても、それを喜ばしく思うことが出来たし、悪と呼ばれる人間が自らの信念を貫くのなら、それはそれで良いとも思えた。

けれど、エリオットは対してそれを好まなかった。彼は物語においても勧善懲悪を何より好んだし、この世界は概ね善と悪に分かれるもの、と考えているところがある。別にそれが単純だと言いたいわけではない。彼は彼なりに世界をそういうものだと思っているし、その分、ある意味ではひどく現実的だ。

エリオットは自分にとっての「敵」が簡単に味方に変わらないことを十分心得ている。――その逆が一瞬だとも知っている。たぶん、幼い頃からのいろいろなしがらみによって培われた概念が、ある部分で柔軟な考え方を奪っているだけの話。――ただ、それだけの話なのだろう。

「その割にはちゃんと読むんだもん、エリオットらしいよね」

僕なら途中で止めてるよ。リーオが言えば、エリオットは「おまえと比べるな」と一言、呆れた調子を繕って返す。

エリオットは自分の感情を素直に表に出すけれど、それは決して空想から語られるものではない。誰かに反論するとなれば相手の言い分をとことん聞いてからしてやるし、たとえば書物の批評をする時だって、その全てを読みきってからあれこれと語る。

筋が通っている、というのだろうか。リーオはエリオットのそういうあり方を尊いと思っていた。自分にはとても真似出来そうにない徹底したその姿勢が、見ている分にも誇らしい。

「……はいはい、ご主人様」

穏やかに呟いて、リーオは広げていた青のそれをテーブルにそっと返してやる。

こうして時を過ごしていると、煌々ときらめく月が部屋一帯に青の光をもたらして、どことなく異様な心持ちになる。一口に寂しい、と言ってしまうのも違うけれど、それでもどこか物寂しい。併せて言うなら――とにかく昂ぶっている、と表現するのだろうか。会話が途切れるたび、エリオットの存在を意識してしまって落ち着かない。

普段こういうことはあまり無いから、どうして良いのか戸惑ってしまう。軽いからかいなんかでぬくもりを求める気分にもなれないし、かと言って、このまま黙っているには心が揺れすぎている。

――衝動、ってこういうのを言うんだろうか。リーオは少しの理解を伴いながら、行き場の無い想いのやり場を思案する。してはみるけれど、おぼつかない。

――満たされたい、と思ってしまう。ただ触れたい。理由もなく。

「……エリオット」

結局抗えもしないまま、リーオはソファに腰掛けるエリオットの指先に触れてみる。床に位置するリーオは必然的に見上げる形になって、それが何故だかひどく被虐的な気分を呼び起こさせるから、なおのこと昂ぶりが強くなる。あくまでも逆らえない。けれど、いとおしくてたまらない。――そんな感覚。

「何だよ、急に」
「なんか、……なんだろ。上手く説明できないけど……」

そうして曖昧に答えたリーオはゆるゆると瞬きを繰り返して、エリオットの膝のちょうど隣に首をもたげた。本当に何と言って良いのかが分からないのだ。ただほの暗いこの部屋の中で、リーオ自身が一番、湧き上がる感情の意味を分かっていない。いつもの平静さを、どうしたって保つことが出来ない。

ただ、察しが良い分、それが根本的な部分に関わる類のものだとは理解出来る。自分の意志でどうなるものでもない、とにもかくにも単純な欲求。求めたいだけ。それだけ。

「ああもう……困る。……こういうのって」

普段から呆れられるほど気分任せに生きているのに、こんなふうになると途端にどうしていいかが見えなくなってしまう。元来押し付けがましいのが嫌いなせいだろう。相手の気持ちを量れるまでは自分から動いていけない性格が災いして、もどかしい。

そんなことを思うリーオの隣で、エリオットもまた複雑な感覚に囚われていた。光に青く揺らぐリーオの横顔には少しだけ紅が差して、いつもの様子とはまた少し違う雰囲気を醸し出している。

リーオの感覚が分からなくても言わんとすることが分かってしまうのは、それこそ何故だか分からなかったけれど――ただ、エリオットもまた、お互いが求めているものは半ば本能的に理解してしまえた。手を伸ばせば触れ合える距離の、唯一の存在を無視出来ない。ひどくいとおしい、と思う。柄じゃない。そう思いはすれど、衝動が感情を拒むことすら許さない。

「リーオ」
「うん……?」

言いながら、その表情は少し気恥ずかしげに、けれどリーオと似たような真剣味を帯びて、エリオットは触れられた手を握り返す。重なり合う手と手が熱を持って、どことなく心地良さを覚える。

それに気付いたリーオは見やるエリオットをそっと見上げて、懇願混じりに視線を交わした。ぼんやりと何も考えられない頭に浮かんだのは、ひとつだけ。

――少し見つめあって、どちらともなく唇を重ねる。

「ん……」

柔らかく押し当てられるそれは、貪欲に求めるようなくちづけだった。深く絡み合って、離れて、また求めあう。一旦踏み込んでしまえば、あとは身を任せてしまうだけ。月の光だけが降り注ぐ幻想的な風景は、抗えない衝動をより色濃くさせていく。

御しがたい恍惚感に身を委ねれば、ひどく幸福な感覚に陥った。リーオはソファに寄り掛かったまま、少し背伸びしてエリオットのそれを受け取って、時折、耐え切れずに自分から返してみたりする。

「……んだよ、やけに積極的じゃねぇか」
「それは……だって」

仕方ないじゃない。エリオットのせいだよ。そんなことを二言三言返してみれば、エリオットは少し笑って余裕の表情を崩さないまま。

「元々はおまえが呼び立てたんだろ」

会話の合間に途切れ途切れのくちづけを落として、絡めた手は離さない。お互い、すっかり躊躇いも消えてしまったのだろう。己の感覚だけに集中すれば、合間から少し吐息が漏れる。心ごと囚われてしまいそうな浮遊感に満たされて、言葉がろくに出て来ない。

「っ、……」

寄せては返す幸福感がそれ以外の全てを追いやるから、目の前のこと以外を気に掛ける余裕がまるで無くなってしまう。増幅されたそれは波打つ熱となって、一見孤独な夜を静かに浚う。

「は、……ちょっと、くるしい……」

つかの間、リーオの息が少しばかり上がるのを見て取って、エリオットは形だけで呆れてみせた。酸素不足からかどこかぼんやりとしたふうのリーオは、抗議すら抗議にならず、ゆるゆると瞬きをして余韻に浸る。

「こんな、激しく、しなくても、……」
「おまえだって乗り気だったじゃねぇか」
「……それは、認める、けど」

弱々しくリーオは言って、エリオットからふい、と視線を逸らす。今回ばかりはしらを切れない。こうまで一途に触れたくなってしまったのは、十中八九この妙に浮世離れした雰囲気のせいだ。

理性より先に相手を求めるのは初めてではないけれど、それにしても、自分に戸惑ってしまうほどの衝動だった。自分が見えなくなる感覚なんて、そうそう訪れるものではないだろう。思いつつ、リーオは大きく息をつく。今もまだ、先ほどの感触が抜け切らないのだろう。高揚感に支配されたまま、もやの向こうを開けない。

「ああもう、……あんまり、煽んないで」

このまま黙っていないと、また残り火が消えてくれない。そんな趣旨の一文を語れば、エリオットは面白そうに少し笑って、「それも悪くねぇな」と一言放る。

――結局、落とされた不意打ちの激しいくちづけに、リーオは明けない青の光を仰ぐ。それさえもかき消えて、再び生まれた底知れない衝動に、彼は諦めたように身を委ねた。