世界とひとつ

「エリオット……?」

ゆるやかな風が吹き込む白の部屋。ふわりと揺れるカーテンを眺めていたら、目の前の気配が小さく動いたことに気が付いた。続いて瞼が開かれたのを確認してから、僕は恐々と彼の名前を呼んでみる。

「……リーオ、か?」

まだどこかぼんやりとしたふうのエリオットは、僕の問いかけにそれだけを言って、何度かゆるく瞬きを繰り返す。その拙くも確かな反応を見て取って、僕はふいに途方もない脱力感に襲われた。――それが安堵なのだと気付くまで、そこからほんの数刻。

状況を呑み込めずにいるエリオットへ「大丈夫?」と問いかけてみれば、彼は「……ああ」と生返事だけを僕に返した。

「……良かった、君が生きてて」

言えば、エリオットはようやく現実感を手に入れたようにベッドの上へ起き上がって、僕へ「悪かった」と一言謝罪を述べる。

何で君が謝るの、とか。どうしてあんな無茶したの、とか。言いたいことは山のようにあったけれど、その瞳がひどく澄み切っていつもと変わりやしないから――。結局、怒りにも似た戸惑いが、静かに僕を駆け巡って行っただけだった。

「本当、……どうなるかと思った」
「心配しすぎだ。オレがあの程度で死ぬわけないだろうが」
「あの程度、って……」

そのまま勢い任せにお小言なんかを言いかけて、喧嘩腰になりそうな言葉を、僕は懸命に思いとどまってみる。「ううん、何でもない」。伝えればエリオットはこくりと頷いて、ふう、と小さく息づいた。

「……痛みはある?」
「ああ。さすがに刺されちゃどうにもならねぇな」

事の起こりは今朝方だった。所用があって訪れていたレベイユの、たまたま入った路地裏の片隅でのこと。歳幼い少年が突然僕を目掛けて飛び込んで来たものだから、僕は咄嗟に反応出来ずに立ち尽くしてしまって――次の瞬間、負けじと飛び出したのがエリオット。少年の抱えたナイフは僕の目の前で彼の左腕を貫いて、そこに広がったのは、ひどく鮮烈な血色の風景。

「傷は思ったより深くないから、大丈夫とは言っていたけど……」

それよりもショックから倒れ込んでしまったのが僕としては気がかりで、罪悪感と一緒に不安となって降りかかる。昏々と眠るエリオットの傍に居ながら、色々なことを考えた。このまま目覚めなかったらどうしよう、とか。それ以上にどうしようもない、僕自身への怒りとか。

かかりつけの医師からは、何時目覚めるかは分からないと言われていた。この後すぐかもしれないし、もしかすると当分はこのままかも分からない。命に別状は無いけれど、そればかりは本人次第だ、と。

「……覚悟しちゃったよ、久々に。医者にはしばらく意識が戻らないかも、なんて脅かされるし……」
「心配すんな。痛みはあるが、他に変わったところはねぇよ」
「なら、いいけど……」

言えば、エリオットは彼らしく悪戯っぽい瞳で笑う。君が生きていてくれさえすれば、とにかく僕はそれで良かった。運び込まれた時はただ単純に、生きていてくれることに安堵した。とにかく君がそこに居てくれることが僕にとってどれほど大切で、尊いことか。

けれど、こうして笑う君を目にすると、それを手放してしまう可能性がひどく恐ろしく思えてしまう。――知っていたつもりなのに、まるで理解していなかったのだと思えるほど、言葉を交わすこの瞬間が愛おしくてたまらない。泣きたくなるほどの安堵が存在することを、こんなことになって初めて知った。

「……怒らないんだな、珍しい」

ぽつり、少しの真剣みを帯びてエリオットがそうこぼすから、僕はほんの少しだけ自嘲する。

「怒れると思うの?……そりゃ、思うよ。本当、なんて君は馬鹿なんだろう、って」

だって、従者を庇って倒れる主人だなんて聞いたことがない。

ああもう、後先考えずに行動する君のそんなところが、僕はいちばん嫌いなんだ。そうやって傷つくことに、いつも少しだって抵抗しやしないから。――笑ってみせたりするから。馬鹿正直で純粋なまま在ることを、まるで何でもないことみたいに君は言うけど。

「……主人を護るのは、僕の役目でしょ」
「従者を危険な目に遭わせないのも主人の役目だろ」
「……だからって」

そういうのにはね、優先順位っていうものがあるんだ。口に出しはしないけれど、いつだって線引きされている命の順位。それが存在することを僕は知ってる。

僕と君とじゃ何もかもが違う。背負っているものとか、目指しているものとか、何もない僕とは違って、君には進むべき道がちゃんとあるんだから。

「……分かるでしょ。立場があるんだから、君にも」

諦めきれずにそう一言こぼしてみれば、エリオットは答えずにじっと下方に視線をやった。

エリオットの生き死になんていうのは、すでに個人の意志で望んでいいようなことじゃない。跡継ぎが誰一人居なくなってしまったこの家の中で、唯一未来を期待されているのが今は彼しかいないから。エリオットのお姉さんはそれを不安がっているけれど、こればかりは今更どうにも変えられない。

向こう見ずなその性格がいつか取り返しの付かないことを起こしてしまうんじゃないだろうかなんて、思ったところで仕方が無いことも、僕は十分承知しているつもり。だけれど、そのあたりの線引きは、エリオットは案外としっかりしていたりする。誰かを切り捨てることにどれほどの躊躇いがあったとしても、それを諦めてしまえる覚悟が彼にはある。

いつだってそう。そのたびに無力さに嘆く君を見ているのは辛いことだけど。――だから、余計に分からなくなる。

「オレは……おまえに死なれるのだけは我慢ならねぇんだよ」
「――。何なの、いきなり……」

あれこれと考えていたら、エリオットが急にそんなことを言い出すものだから、言葉に詰まって僕は黙り込むしかなくなってしまう。そこから沈黙の時間が流れ始めて、ほんの数秒。

「……言っておくけど、僕は君に巻き込まれたなんて思ってないよ?」

手短に分かりきったそれを伝えてみれば、「んなこた分かってる」と少し呆れたようなエリオットの声。分かっているなら、尚更どうして。僕は君を守りたいといつも願っているし、時折守られたいと願いもするけれど、そこから来る自己犠牲なんて僕だけで十分。エリオットがそれをするにはあまりにも釣り合わない。

――そう、思うのだけれど。どうしたって率直にはそれを伝えてはいけないような気がして、僕はエリオットの次の言葉を待ってみる。ちょうど良い文句が出てこないのは、やっぱりその分だけ動揺してしまっていたせいだろう。ぐるぐると思考だけが巡り続けて、それを上手く伝わるような言葉に整えられない。

「……エリオット?」

もどかしいで想いで居れば、エリオットが神妙な顔をして僕のことを見やる。心のうちを見透かされたような気分になって、何だか少しばつが悪い。

――たぶん、僕が言わんとしたことを呑み込んだことに気が付いたのだろう。少ししてから僕の名前を短く呼んで、エリオットは一言だけ僕に尋ねた。

「おまえ、何を考えてる?」
「……別に。そんなに大したことじゃないよ」
「……おまえがそう言って本当にその通りだったためしはねぇな」

はあ、と溜め息を落として僕へそんなことを語りながら、エリオットは傷になった左腕をほんの少しばかり気にかける。ほとんど無意識なのだろう。あまり気に留めたふうでもないそれは、けれど確かに血の跡を思わせて、その光景を見るにつけ、僕はひどく混沌とした罪悪感に駆られてしまう。

「うーん……絶対怒らないなら、……言うよ」
「約束は出来ねぇな」
「それじゃあ駄目だよ。……たぶん怒るから。エリオットは」

言えば、複雑そうな表情のまま、エリオットは答えあぐねて視線を逸らした。

誰よりも自分がいちばん自己犠牲を払っているくせに、エリオット自身は他人の自己犠牲をほとほと嫌う。とりわけ僕に対してそれがとても強いからさっき、僕は咄嗟に言葉を押し留めてしまったのだろう。

命に優先順位や軽重を見出すことを、エリオットはいつだって良しとはしない。どんなにそれが想定しておくべき「現実」であったとしても、エリオットはそんな考え方を認めようとは決してしないし――だから僕自身、いつだって「本当」を心の中にとどめ置いてはいるけれど。

実際、いざ事が起こったら、やっぱり僕は彼のために命を賭すべきなのだろうと思う。それを理不尽だとすら思えないのだから、ある意味適材適所というものなのかもしれない。かつて世界の何ひとつにさえ興味を抱けなかったこと――それ自体が不思議に思えるほど、僕はエリオットのすべてに惹かれてしまっているみたいだから。

「……僕だって同じだよ」
「ん……?」
「君に死なれたら、僕はたぶん僕を許せない」

それがたとえ間接的であっても、直接的であったとしても。僕が生きる世界から君が弾き出されてしまったら、僕はたぶん誰一人も恨まない。そんなことをしてみたところで、いつだって「過去」には戻れやしないことを知っているから。

それでも、きっと自分だけを赦さない。それですべてを失くすことになったって、どうせ君を失った世界。無彩色の毎日にはたぶん、希望なんかひとつも在りはしないんだろう。そんなことを最近は漠然と、思う。

「ねぇ、エリオット。……ひとつ聞いてもいい?」
「……ああ。何だ?」
「君は、大事な人より先に死にたい?それとも後に死にたい?」
「……何だよ。随分唐突だな」
「いいでしょ。……ちょっと気になっただけ」

ふと浮かんだ疑問を口にしてみれば、エリオットは面食らったような表情で幾らか瞬きを繰り返している。それからすぐに真剣な面持ちになって、しばらく考え込んではみるけれど、どうにも答えが出ないらしい。

ぼんやりと間が空いて、二人だけの空間に静寂が戻る。小さく反響する白い部屋が少し眩しくて、わだかまる心がどこか苦しい。

「――たとえば、だけど」

答えが返らないことに少し焦れてしまって、僕は続けて言葉を投げる。

「……僕は、君より先に死にたいって思うよ」

君の死を見たくないだとか、今更君なしの世界を歩きたくはないだとか。理由はいくつかあるけれど、要するにこの願いは僕の我儘。終わりがいつ訪れるとも知れないこんな退廃的な日常の中で、幸せな終わりを祈ることすら、本来はきっと過ぎた願いであることも理解していながら、それでも。

「……そうだな。なら、おまえはオレが看取ってやる」
「あれ……死にたいって言うこと、怒らないんだ?」
「今、の話じゃないんだろ?」
「うん。……今は幸せだから、もう少し」
「……なら、オレはおまえの後でいい」

言葉少なにそう言って、エリオットは僕に少しの視線をくれる。たぶん、エリオットは分かっているんだろう。僕が世界を見渡しているのは、いつも君の姿を通してだってこと。おそらくは、無意識に。

「……どうせ長生きしなさそうだしなぁ、僕」
「ったく、縁起でもないこと言ってんじゃねぇよ」
「ん……でも、別に死ぬこと自体は平気。怖くないよ」

それよりも、一度手にしてしまったぬくもりを手放すことの方が恐ろしい。たったひとつ失ってしまうだけで、すべてが空っぽになってしまうことを僕自身が知っているから。痛いほどエリオットを想うこの心が、それだけを一心に拒絶しようとしているから。

「……あのさ。さっき言おうとしたことだけど」

そこまで言ってから、僕は少し前の話題をもう一度だけ口にする。――分からなくなる。自己犠牲が一方的であってくれないのは、どうしてなのだろうか、なんて。

――そうじゃない。本当は分かっているけれど、答えを聞いて良いものかを迷っているだけ。それを想うたびに僕はなぜだか、それが許されないような気がしてしまうから。

「リーオ。オレがおまえを守ろうとするのは、別に従者だからというわけじゃない」
「……エリオット?」
「ああ、いや、それもあるが……」

ふいに僕の前置きの後に重ねて、エリオットが一文を投げ入れた。上手く言えねぇな、と逡巡されたそれは、けれどとても力強くて、僕のそれをあっという間にかき消してしまう。

「――とにかく、オレはおまえが犠牲になることを望んで従者にしたわけじゃねぇ」

むしろ逆だ、逆。どこか投げやりにそう言い放って、エリオットは僕へと視線を合わせる。

――ああほら、またそうやって。君が僕を自由にしようとするそのたびに、僕はまたひとつ君に囚われてしまう。それがたまらなく幸福だと思えてしまうから、どこまで行っても始末に負えやしないのに。

「……なら、僕も従者としてじゃなくて、一個人として君に言うけど」
「……何だよ?」
「あんまり無茶、しないで。……不安になるから」

僕のためになんかより、君のためにを思って生きてくれた方が、僕はずっと穏やかに居られそう。僕は君が隣に居るだけで、図々しいくらいに満ち足りてしまうから。

「……でも、ありがとう。嬉しかったよ、君が庇ってくれたこと」

あの時僕が手にしたものは、重い罪悪感とそれよりも大きな幸せ。二つがない交ぜになって整理しきれない感情が、尚更どうしようもない愛おしさを生み出して僕を真っ直ぐ包み込む。

「……さて、僕はそろそろ医者に知らせて来ることにするよ。まだあんまり動いちゃ駄目だよ、エリオット」
「分かってる。……さすがに大して動く気も起きねぇよ」
「……ならいいんだけど」

言ってから、僕は白くかたどられたその部屋を飛び出した。見送るエリオットがほんの一瞬痛ましげに傷跡を見やったことに気が付いて、僕はまた少しだけ複雑な心持ちになる。

それでも、ほんの少し湧き上がる嬉しさを抑えきることがどうしても出来ない。

結局ぶつかり合う各々が答えを出さないから、僕は考えることを止めてしまって、揺れるままの想いに身を任せた。