誓いの月

窓の向こうでしんしんと降り続く雨に、エリオットはひどく疎ましげに表情を歪める。首狩り。久しぶりに見たその夢は、今も色褪せぬ血の色を鮮明に映し出していた。

まるで悪夢のようにすっぱりと切り離された兄の亡骸と、崩れ泣く姉の嗚咽。関心無げな赤色の瞳に満ちた歪な笑みと、信じられないとだけ、そっと呟いたその兄と。記憶に残る何もかもが残酷な光景でしかなくて、ほんの数年の時を数十年にも錯覚してしまいそうなほど、あの出来事は癒えぬ傷となってエリオットに刻まれている。

エリオットから少し離れた場所で気づかれないようにそっと溜め息を落としたリーオは、湯を沸かしながら二人分のカップを食器棚から取り出した。カタン、と響いた陶器の触れ合う音にしまったと思いはしたけれど、当のエリオットはすっかり思考に呑まれたままで、こちらを気にかけてすらいないようだ。

先ほど悪夢から目覚めたエリオットは、あの夜の夢を見た、とそう言った。日付が明確に示される彼の悪夢などひとつしか在りはしないから、リーオも頷くだけで深く追求することはしなかった。代わりにキッチンへ行ってくるとだけエリオットに告げて、彼は今こうしているというわけだ。

「っと、危ない」

主人のことに気を取られているのか、茶葉の缶をひっくり返しそうになりながら、リーオは宙に浮いたそれを慌てて掴む。少しこぼれ落ちた葉がいやに目を引く紅色だったのは、何かの偶然なのだろうか。

「……んー、こんなもんかな」

少しして、美しい色合いを醸し出したハーブティーに満足したらしいリーオはトレイを抱えてキッチンを出る。相変わらず強張った表情を崩さないエリオットに、リーオは出来る限りの平静を繕い近づいた。

「エリオット。お茶、持ってきたよ」

声に少しだけリーオの方を向いたエリオットへ慣れた手つきで紅茶のカップを差し出して、リーオは彼の座す向かい側のソファへと掛ける。そのまま自らの分を幾らか口にして、直後、何でもない風にスプーン1杯砂糖を足した。

「……思い出す?あの日のこと」

それから一息ついて投げ掛けられた一見無遠慮にも思えるその率直な問いは、反して彼なりのエリオットへの気遣いの表れだった。

直情的なエリオットは元来、とても意地っ張りな性格だ。こう見えて根は優しく、それだけに少し繊細なところがある彼は、だからこそよく傷を抱え込んでしまう。それなのに、こうして尋ねてやらなければ彼は自分の痛みを話そうともしないのだ。

従者に気を遣うなんて、まったく聞いたことがないよね。内心盛大な呆れ顔を作りつつ、リーオは目の前の動揺した風な主人をしかと見据える。そのうち少しだけ視線を逸らしてみせるあたりは、さすがに嘘が吐けないエリオットらしい。

「……忘れられるわけがないだろう。あんな、残酷な殺し方……っ」
「そうだね。酷い夜だった。……僕もよく覚えてるよ」

エリオットを安心させるかのように落ち着き払って同調するリーオもまた、あの夜の光景を忘れられてはいなかった。生々しく散った血と、瞳が開いたまま事切れて地に転がっている、首。まるでこの世のものとは思えぬ風景。耐えられたのは、それがリーオにとってはある種の他人であったからだろう。

おそらく兄を殺されたエリオットの憎しみは、当の首狩りだけではなく自分自身にも向かっている。どこまでも実直な彼は、自分の無力さをとことんまでに嫌うのだ。自分に力が有りさえすればと無力さを嘆いては、いつだって必死に何かを守ろうとする。

リーオはそんなエリオットをエリオットらしいといとおしく思ったけれど、反面、向こう見ずな部分には不安も覚えた。頭の良い彼のことだから基本的には無茶をすることはないけれど、それでも、彼は一旦頭に血が上ると周りが見えなくなるところがあるのだ。

「でも、夢は夢でしかないよ。同じことは二度起こるわけじゃない」
「……ああ、わかってる」

先ほどリーオに差し出された紅茶を手にして、エリオットはゆるく静かに瞳を伏せた。水面に反射して映った表情は怯えと怒りを少しずつ取り混ぜたような風をしていて、何と形容すれば良いのか判断に参る。

あの時彼自身が感じたのは、リーオが推測した通りの底知れぬ怒りと、それから同じくらいに強い恐怖だった。得体の知れない人間が何の目的かも分からぬままに自家を狙い、実際に身内の命を刈り取って行く。その狂気は確かにエリオットへ理不尽に対する憤りを生み出させはしたけれど、同時に恐怖を感じさせたとしても無理はない。

「あいつはナイトレイの人間を狙ってる。けど、この家に関わる者なら実質の血筋の有無は眼中に無いらしい」
「ふーん。獲物一筋に見えて割と無節操なんだ」
「おまえな……そうやって暢気に言ってるが、おまえも狙われるかもしれねぇんだぞ?もう少し危機感を……」
「んー、いいじゃない。だって」
「あ?」
「僕は君から離れないから。たぶん、死ぬときは一緒だよ」

違う? そう言ってにこりと笑ったリーオは、どう表現すべきか迷うほどに言い知れぬ決意に満ちていた。共に生きると言ってのけるリーオの、他者に有無を言わせぬこの雰囲気はたぶん、本気だ。

「……リーオ」
「ん?」
「……いや。やっぱり何でもねぇよ」

一瞬もの言いたげな顔をしながら、直後、エリオットはあえてそれを呑み込んだ。月並みにありがとうと伝えたかったような気もするし、何となく、ごめんと一言謝りたかっただけのような気もする。

どちらもエリオットがリーオに抱える本心ではあるけれど、その実、どちらも微妙にずれている。今この時に伝えてみたところで、笑われてしまうのがオチだろう。

「……まだ辛い?」
「いや、大丈夫だ。しかしこの夢見の悪さ……どうにかなんねぇのか」
「エリオットは見かけによらず繊細だからね。生まれ変わらないと直らなかったりして」
「……おい」
「やだなぁ、冗談だよ。……首狩りはともかく、いつもの夢のこともあるからね。何かあったら僕にも知らせて?」

君、言っておかないと絶対一人で抱え込むから。物静かに、しかしどこか反論を許さないような口調で、リーオは至極きっぱりと注意を促した。噛み付くほどの元気は残っていなかったのか、エリオットもそれに「分かった」とだけ返答して残りの紅茶を一気に飲み干す。

傍らでは彼が起きるまで開いていた読みかけの本をぱたんと閉じて、リーオがさして大きくもない窓を開け放つ。瞬間、想像していたよりは少しだけゆるやかな風が吹き込んで、つんと立ち込める夜の匂いがどうにも複雑な心境をもたらした。

「……エリオット、もう寝る?」
「いや、さすがにすぐには無理だ。……ってリーオ、先から何やってんだ?」
「月を探してる。うーん、ここからじゃ見えないかな」

窓から身を乗り出しつつ呟くリーオは、既に興味がエリオットからまだ見えぬ月へと移っているようだった。おそらくエリオットの状態を安定したと判断した末に生じた探究心なのだろうけれど、今ひとつ釈然としない感情を抱える彼は呆れ混じりに溜め息を落とす。

別に、好奇心が旺盛なリーオを悪いと言いたいわけではない。むしろエリオット自身、そんな彼を誰より好いているし、だからこそ常日頃から傍に置いているのでもある。

けれど自分がまだ見えてもいない月と同列か、せいぜい若干上回る程度の優先順位なのかと考えるのならば。やはり分かっているはずのリーオのことが分からなくなるし、意気消沈したくもなるのだろう。

「うーん、これだけ見回してもないってことは、やっぱり……」
「何だよ?」
「新月なのかな、今日は」
「……新月?」

腑に落ちぬまま黙り込んでいたエリオットは、日頃学問上でしか聞き慣れない月の名を目の前の従者から耳にして、訝しげな表情をもって同じ響きで問い返す。推察した事実に対してどこか嬉しげなリーオの意図するところが分からずに、少し困ったようにも、いらついたようにも見える表情でエリオットは答えを待った。

「新月の日に願い事をすると、その願いは叶うんだって。前に何かの本で読んだんだ」
「何だそれは。オレはそんなものは……」
「信じてない、でしょ。分かってる分かってる。……というわけだから、はい、エリオット」
「……紙?」
「うん。だからさ、願い事を書く紙だよ」
「……リーオ。オレの話を聞いてなかったのか?」

あまりの従者のマイペースぶりに先ほどよりもさらに盛大な溜め息をついて、エリオットはじとりとした視線をリーオに送る。押し付けられるように受け取った白紙とペンを恨めしそうに眺めながら、楽しそうに願いを書き留めていくリーオの奔放さにすっかりと落とし込まれている自分に、このままでは気付かざるを得ないではないか。

ナイトレイ家と言えば昔から裏の仕事や、その手を汚すような仕事ばかり請け負ってきた一家だ。だからこそ、大方の人間は自然と、神やら何やらの偶像的なものは一切信じないようになっていった。

形の無いものに逃げを求めたりすれば誰かしらに咎められたし、最後に信じられるものなど結局は自分しか居ないのだと。与えられるままにいつしか凝り固まった常識を一瞬にして無に帰すようなことを、リーオは時々、こうしていとも平然とやってのける。

「ただ書いて願うだけなんざ、効果があるとは思えねぇな」
「まあまあ。こういうのは信じてみることが大事なんだよ。たとえ迷信でもね」

病は気からって言うでしょ? あれみたいなものだって。どこまでも懐疑的なエリオットに苦笑するリーオは、自身のそれが完成したのか一息ついてペンを置く。光の浮かばない夜はひたすらに透明な藍色をしていて、澄んだ空気はどこか神妙さを醸し出してもいるようだ。

「いいからエリオットも書いてみなよ。どうせ減るもんじゃないんだし」
「……ったく、仕方ねぇ。そこまで言うなら書いてやるよ」

けどな、絶対こっち見んなよ! 結局要請を受け入れたエリオットがそう不躾に放った言葉には照れが混じって、想像していたほど威勢良いものにはなってくれずにリーオは笑う。

たとえ新月が叶えてくれなかったとしても、構うことなどないではないか。

エリオットがいつまでも笑っていますように。そう記した願いは誓いに変えて、守り通せば良いだけなのだから。