たまゆら

うず高く積み上げられた書物の山の前に立って、エリオットは言葉も無く深い溜め息をついていた。ひたすらに耐え続けてきた己の精神力をいっそ誇らしく思えるほど、現在の状況は芳しくない。いや、むしろ悪いと言って差し支えないだろう。

二人が日々を過ごすこの部屋は、あろうことか几帳面な主人と大雑把な従者で構成されている。従者を出来得る限りに自らと対等の立場に見立てようとするエリオットは、日頃から自身の権威を振りかざして他者に忠告することがほとんど無かった。

しかし、この状況ではそれも致し方ないかもしれない。今エリオットが眺めるリーオのベッドの荒れようは、彼にそう思わせるにも十分なほどに壮絶だった。

「……リーオ、片付けるぞ」
「えーと……片付けるって、具体的には?」
「具体も何もねぇよ!その本の山だ、おまえの!」
「えー、この間も片付けたばっかりなのに」

その時もエリオットが言ったから片付けたんだよ。そう言って見るからに面倒そうな表情を浮かべながらエリオットの発案に抗議するリーオは、先ほどから積まれた本の片隅に埋もれるようにして己のベッドに掛けている。

今にも崩れそうな既読の書物の山は辛うじてバランスを保っているような状態で、もういつ崩壊を起こしてもおかしくはなさそうだ。

「おまえがすぐに読んだ本を溜め込むせいだろう。自業自得だ」
「相変わらず厳しいなぁ、エリオットは」
「どこがだ!」

ゆるりと読みかけの本を閉じて立ち上がるリーオは、一度大きな伸びをして、手持ちのそれを机の片隅にそれとなく置いた。そのまま振り返った先にある大量の本の山をしげしげと眺めて、彼は特に動き出そうともせず立ち尽くす。

ベッドの上に無造作に散らばっている本の数々は、とにかく様々な種類のもので埋め尽くされていた。中でも大半を占めているのは文学と歴史書で、ぱっと見た目もいかにもリーオらしいと言うか、予想を裏切らないタイトルばかりだな、と何とはなしにエリオットは思う。

「とりあえず同じ作品は分けろ。それからまとめて片付ければいいだろ」
「えー、別に大丈夫だよ?適当に置いておけば何となく分かるし」
「……あのな、大丈夫じゃねぇからこうなってるんだろうが!いいから分けろ!」
「怒りんぼだなぁ、もう……」

分かったよ、そうするから。大げさに溜め息をついて近くに位置する本の一団を抱え込んだリーオは、見慣れたそれらを出来るだけゆっくりとした手つきで選別し始める。対するエリオットはそれは正確な手さばきで本を仕分け、既に彼自身が本の山に隠れかねないほどの量を相手にし終えていた。

そこそこに几帳面なエリオットは、時たまこうしてリーオの怠惰さに爆発を見せることがあった。どうやら彼はある限界点に達すると途端に沸点を超えてしまう性質のようで、たとえば昨日は何も言っていなかったとしても、次の日にはこうして強制的に大掃除を慣行させていたりする。

たしか前回も全くといって良いほど同じような流れを経た挙句、エリオットが痺れを切らしてリーオに片付けを申し付けたのだった。とは言っても最近では怒りというよりは呆れの方が強いらしく、半ば諦めのような語気を含んではいるけれど。

「な……おまえ、これ持ってたのか……」
「ん?あぁ、その本、この間貸してあげようかって言ったじゃない」

瞬間、それまで黙々と動かしていた手をふと止めたエリオットは、目の前に姿を現した先日出たばかりの物語の新刊を瞳を輝かせながら手に取った。そこで今が作業中だったことを思い出したのか、一応とばかりに我に返って話を続ける。

「……覚えがねぇ」
「そういえばあの時のエリオット、随分機嫌悪そうだったもんね。散々子どもたちに絡まれた後だったっけ」

そう思い返して笑うリーオに、エリオットは尚更拗ねたように目の前の本の山々に注意を向ける。

元来子どもが苦手なエリオットは、フィアナの家に行くと大抵ひどく疲れた表情であの施設をあとにすることになる。やんちゃな顔ぶれが揃っているあの場所は、けれど少し荒んだ空気も持ち合わせているから。だからエリオットはあの子どもたちを放っておけないのだろうと、リーオは一方的ながらも理解していた。

あの場所に帰り着くのは本来リーオひとりでも問題ないはずなのだが、行くと告げれば毎度、エリオットが付いて行くと言って聞かないのだ。以前一度だけ勢いに任せて尋ねた問いに返ってきた答えが「おまえが心配だからに決まってるだろう」と、さも当然のような響きであったことを、リーオは今でも忘れていなかった。

「……懐かしいな」
「何か言ったか?」
「ううん。なにも」
「だったら手を動かせ、手を。このままだと夜もロクに迎えられん」
「はいはい、ご主人様」

エリオットの見るからにいらついた様子を意にも介せず、リーオがわざとらしく主従の関係を強調してそう呼べば、彼は返す言葉も無いまま溜め息だけをそっと落とした。

うず高かった山はエリオットの奮闘によってようやく半分を切るほどに数を減らし、本が積み上げられていた場所にはようやく本来の寝床が見え隠れしている。

「わー、この本久しぶりに見たよ」
「そりゃあこれだけ下敷きになっていれば当然だろうな。おまえはもう少し本を丁寧に扱え」
「うーん、善処するよ。……あれ、これもこんなところにあったのかー」
「あのなぁ……」

まるで宝の山を発掘するかのような振る舞いに心底呆れるエリオットは、それでも、そこから本以外のものが何ひとつ出てこないことに多少なりと驚いていた。通常であれば本の中に紛れ込むものは本ではなく他の何かであることが多いのだが、リーオの場合はただの一度もそれが無い。

かと言って机の上は綺麗に整頓されているのだから、全く、このベッドにすべての厄を押し込めているかのようだ。整えられた部屋の中で、常にこのベッドの上だけが見るも無残な状態になってしまう。

「それにしても、他の場所は片付けられるのにどうしてここだけこんなことになるんだ?」
「んー、何でかな。後で戻そうとは思うんだけど、気づいたら結局ここに溜め込んじゃうんだよね」

ようやく気分が乗ってきたのか少々速度を上げて作業し始めたリーオは、他人事のように軽い調子で元凶を呟く。けれど理由など、本当はそれだけではないことにエリオットは気が付いているのだろうか。

会話を続けながらどことなく彼の様子を伺うリーオは、気づかれない程度にほんの小さく息をついた。ベッドの荒れ模様の原因がリーオの怠慢なのは本当だ。片付け終われば彼の居場所は確かに取り戻せるし、それを喜ばしくも思うだろう。けれど、この作業を終えることで、失くしてしまう権利もまたあるのだ。







「うわー、エリオット、速いね。片付け終わっちゃうよ」
「おまえが真剣にやればもうちょっと早かったと思うがな」
「ひどいなぁ、僕は大真面目だったのに」
「……さらっと嘘を言うな」

開始当初は絶望的とも思われた量の本の山も気付けば残り一区画となって、エリオットはほっとしたように最後のそれらに取り掛かる。横にぴったりと寄り添って彼の作業を眺めるリーオは、ただ眺めるばかりで自ら手を出したりはしない。

基本的には自分の所有物を他人に触れられることを嫌うリーオだったけれど、相手がエリオットであれば特に抵抗は無いようだった。もっとも、エリオットが了解無く誰かの物を持ち出したりしたことは今まで数えるほどしかなかったから、信頼の上に成り立っている無抵抗さではあるのだろうけれど。

「よし、こんなもんだろ」

最後の一山をようやっと崩し終えて、納得したような面持ちでエリオットはひとりでに頷いた。傍らのリーオは久しぶりに目にした自らのベッドに物珍しげに飛び込んで、そのまま寝転がって天井を仰いでいる。

どうにか作業を終えた現在は、とうに日付も変わった午前二時だ。

「やっぱり広いね、ひとりは」
「そりゃそうだろ。ったく、毎度毎度人のベッドに転がり込んで来やがって」
「んー……僕としては、エリオットと一緒に寝るのも悪くなかったんだけど」
「……あのな、だからってあの状況をいつまでも放っておくわけにはいかねぇだろ」
「まぁ、そうなんだけど」

快適そうにごろんごろんと二、三度寝返りを打って、リーオはゆるく瞳を伏せた。警戒する必要の無い自室のベッドとなると、安堵感からかどうにも眠気が襲ってきそうになる。

最近は何かと理由を付けてエリオットのベッドに潜り込んでいたから、自分の自由な時間に眠るということはあまり無かった。一緒に眠るからと言って遠慮していたわけではもちろん無いけれど、ぬくもりを感じられるそこは大層居心地が良くて、つい眠らずに長居してしまっていたというわけだ。

「……ちょっと眠くなってきた、かも」
「……リーオ」
「うん……?」
「ちょっとこっち、向け」

エリオットの呼びかけに「なぁに」といつもより少しだけのんびりと返答して、リーオは声のする方をゆったりと振り向いた。四六時中掛けたままの眼鏡を外し、真っ直ぐに映り込む瞳は若干ながら眠たげに細められてはいたけれど、それでもその瞳はエリオットをしっかりと見据えている。

「……別に、入って来たけりゃ好きにすればいいだろ」

ぶっきらぼうに与えられた言葉に一瞬だけ間を空けてから、意図を理解したらしいリーオはすぐさま幸福そうな微笑を浮かべた。

何も見ていないようでお互いのことをしっかりと把握している。この一見単純そうに見える難儀な行為こそ、彼らがお互いに共有している特性だ。

それきり会話が途切れて、改めて視線がかち合う。ああくるな、とリーオが思考のおぼつかない頭で覚悟してみれば、直後、そっと指を絡められて、ひどく切なげに唇が触れ合った。

「ん……おやすみ、エリオット」
「……ああ」

生まれ来る絶対的な幸福感に包まれながら、リーオは静かに瞳を閉じる。

君のベッドに行くのは、また明日ね。声にならずにそう呟いて、眠りの海へと身を投げた。