祈りの面差し

真昼に強く差し込んでいた陽も今となってはとうに落ちて、宵に差し掛かる藍色が、どこか物憂げに静寂を満たしている。ユラの屋敷への往路を歩く二人の間には、糸の張り詰めたように静かな、その実とても危うげな空気が流れていた。

オズ=ベザリウスが社交界に初めて出席するからとユラの屋敷へ招かれた彼らは、二人とも、会場へ向かうことに対してあまり気乗りがしないようだった。理由は別段今回の件がベザリウス家の跡継ぎが出席する催事だからというわけではなくて、ただ、どちらにも共通して顔を合わせたくないと願う人間が居るからだった。

思いつめたように空の遠くを見つめるリーオは、珍しく主人の様子を気に掛けることも出来ず、エリオットの後ろで少しばかり俯いてみる。

リーオは今回の件をどうしても、エリオットへ話すわけにはいかずにいた。彼を頼る、頼らないの問題ではなくて、頼ることが出来ないのだ。許されない、と言ってみたって、今回に限ってはあながち間違いではないとさえ、思う。

たぶんこの先もこうして黙り込んだままでは、いずれエリオットが不審に思うことだろう。そう理解はしているリーオだったけれど、悲報やいろいろな事柄にかき乱されたままの気持ちを、容易く立て直すことは出来そうになかった。

近頃はどこか恐怖にも似た感情に満たされるばかりで、揺れる心を煩わしいと思いはするけれど。

「……ねぇ、エリオット」

夜闇には冷たい風が吹き抜けて、つかの間、それがあまり手入れのされていないリーオの黒髪をゆるやかにさらう。そうして呼び止められたエリオットは、少しだけ重々しい調子で振り向いて、ただ真っ直ぐに彼を見やった。

今更どれだけ普通を装おうとしたって、すぐに見破られてしまうことをもう、お互いに知りすぎるほど知ってしまっているから。だから、あえて場違いな笑顔を取り繕うことはしなかった。

「……何だ?」

リーオの呼びかけを真剣味を帯びた声音で拾い上げたエリオットに、リーオは一瞬だけ躊躇った様子を見せて、予め用意していた問いを投げ掛けようと試みる。いったい何度本当のことを話してしまおうかと自問したかは知れないけれど、それでも、本当に言いたいことを今、ここで言えはしない。

代わりにもうひとつ聞きたいことを今ここで、聞く。けれどこれもまた、彼がずっと聞けずにいた事柄のひとつではあった。

「忘れちゃうって、どんな感じなんだろうね」
「……忘れる?」

そもそも保身と自己犠牲との狭間を行ったり来たり、彼がもとよりこんな風に他者に依存する性格ではないはずだったことは、彼自身が一番よく理解しているつもりではあった。

どんな時においても自分が中心でも他人が中心でもない、ひたすら風任せに生きるマイペースな人間。リーオ自身、自分のことをそれがリーオという人間であると分析していたし、エリオットの従者になるまでは、その分析はまず間違いなく正しいとさえ言いきれた。

けれど今、彼が何より優先するものは他の何でもなくエリオットだった。それはリーオにとって彼が主人だからとか、仕えるべき存在だからとか、それほど意味の無い形式ばった理由なんかが存在しているからではなくて、もっと、もっと別の。

「……フィリップ、みたいにさ。自分にどんな不幸があったのかも全部、忘れちゃったら」

それって楽なことだと思う?続けてそう自嘲気味に問うたリーオに、エリオットは少し困ったような顔をして、すぐには返事を返さず黙り込む。

愛していたはずの父親のことを「忘れてしまった」と無邪気に語るフィリップのことは、事件を受け入れられずにショックで自分の記憶を書き換えてしまったのだと、以前フィアナの家に彼がやってきた際、担当の人間から説明を受けていた。

その時から、リーオは言い知れない違和感を彼に対して抱いてはいた。あの時はエリオットも随分訝しげな顔をしていたけれど、彼に関しては渋々ながらも納得はしたようだから、今は特にフィリップに対して疑問を抱いているということは無いのだろう。

「……忘れることは楽かもしれねぇが、それは逃げだろ。忘れてしまえばそれで解決とは、オレは認めねぇ」
「うん。……そうだよね。エリオットなら、そう言うと思ってた」

言いながら、未だ緊張が解けないままの表情で、それでもリーオは少しだけ笑う。責任感の強いエリオットはいつだって逃げに走ることを嫌うから、きっと安易に忘れることを肯定しないだろうことは、今更分かりきってはいたのだけれど。

唐突にユラの他人を舐めつけるような表情が脳裏に浮かんで、怒りや悲しみや失望や、重なり続ける負の感情を払いきれずに、リーオは眼鏡の奥で痛ましげに視線を流す。ああ、あんな手紙なんて、叶うならもう、二度と目にしたくはなかったのに。

「……リーオ?」
「ん、そうだな……じゃあ、もうひとつだけいい?」
「……ああ、言ってみろよ」

エリオットに促されて、続けてリーオはひたすらに秘めてきた問いを口にするべく決意する。ずっと聞きたくて、今まで聞けずにいた言葉。彼が本気にしないだろうと分かり切っていても、それでも想定の上に返るはずの答えを聞くことが怖くて、それはいつだってぎりぎりのところで問い掛けることを躊躇わせるから。

「……僕が、さ。いろんなこと全部、忘れちゃったらエリオットはどうする?」
「……は?」
「うん、だからさ、例えばの話。もし僕がエリオットのこととか全部忘れて、何でもないただの僕になったら」

そうしたら、ねぇ、エリオット。その時僕はどうするのかな。

予想外の問い掛けに面食らったように何も言えずにいるエリオットの返答を待つ間、暗く影の落ちた心で、リーオはそっと思考を巡らせる。

君を忘れた僕は前みたいに、何にもない毎日を何でもなく過ごすんだろうか。それだけならまぁ、それも別に悪くはないけど。

だけど、もし君を殺そうとしたり、君の大事な人たちを傷つけようとしたり、そんなことになったとしたら。そうしたら、一体どうすれば良いって言うんだろうか。

ああ、それでも、その時の僕はそれを正しいと思っているはずだから。

――もう、そうなった時点できっと、どうしたって始末に負えやしないんだ。

でも、例えば僕が君の事をキレイさっぱり忘れてしまったって、君が僕のことを忘れてくれるわけじゃないから。変わってしまった僕を見て、その時君はどうするのかな。出来るなら、見捨ててくれればいい。関わらないでくれたらと、思う。

だって、きっと君には僕を殺せはしないから。君はいつだってとても、優しいから。

「ったく、何だって急にそんなことを……」
「んー、気まぐれ?あんまり深く考えないで答えてよ、エリオット」
「……オレは」
「……うん」

戸惑うエリオットに少しの諦観を滲ませながら、ふわりふわりとリーオは笑う。自分の中で何かが欠けてしまっているとき、リーオはいつもこうして埋め合わせるように、取り繕うように、ひどく悲しげな顔で笑うのだ。

たぶん、これはリーオ自身が内面を悟られたくないと願うが故の無意識の自己防衛のようなものなのだろう。こんな時は大抵何らかの隠し事を抱えているのだと、共に在るエリオットもいつからか気が付くようになっていた。

ただ、今の様子ではとても問い詰めることなど出来そうにないことも、また十分に理解は出来る。張り詰めた空気はそれほどに限界線寸前の危うさをはらんで、エリオットに警鐘を鳴らし続けているのだ。

「……そうだな。もしおまえがオレのことを忘れやがったら、その時はオレが全部思い出させてやる」
「え……」
「第一おまえはオレの従者だからな。オレのことを忘れようが忘れまいが関係ねぇ。不遜な従者は叩き直してやるだけだ」
「はは……エリオットはやっぱり、エリオットだね」
「……あ?どういう意味だよ」
「そのまんまさ。何があろうと、君が君であることにはいつでも何の変わりもない。それが嬉しいよ。……すごくね」

いつだって誇り高いエリオットは、リーオにとって何よりかけがえの無い存在だった。どんなことがあっても自分を見失うことの無い強さは、いつ己を見失うとも知れないリーオにとっては眩しすぎるほどに尊く映る。

エリオットが道を示してくれる光なら、その光をひたすら守っていたいと思った。何を犠牲にしたって構わないと思えるその感情がどこか歪んだものだとは分かってはいたけれど、いろいろなものが危ういバランスで成り立っている、今となってはそれでも良かった。

たとえば結果的に自分を犠牲することになったって、自分という存在に意味を見出せるのなら。それもまた、悪くはないとさえ思えるほどに。

「……おまえ、大丈夫か?先から変だぞ?」
「別にそんなことないよ。……でも、あんまり調子も良くないし、社交場は苦手だから下がらせてもらっていいかな。付いていてあげられなくて悪いんだけど」

もう少しすればお姉さんとも合流できるはずだし、大丈夫だよね。やがてたどり着いたユラの屋敷の前でそう告げたリーオにエリオットも反対することはせず、エリオットは彼の分の羽根を受け取って、その場で一通りの身支度を整える。

「……なるべく早くおまえのところに戻る」

それじゃあな、と呟いて、エリオットは屋敷の大広間へと独りで向かう。残されたリーオはしばらくその後ろ姿を見送って、ふと訪れた静寂に思い返されたのは、先ほど投げ返されたばかりの強き言の葉。

忘れたなら、その時はオレが思い出させてやる、と。何の迷いも宿らぬ瞳が語ったそれは、今の彼にとってはひどく残酷な響きでもあったけれど。

――ああだけど、それでも、叶うのなら。

「そう……だったらいいと、思うよ。僕も、君と。……ずっと、一緒に」