青色の街の片隅で

晴れ渡るレベイユの街の外れで、二人はパンを片手にひと時の休息を取っていた。貴族でありながらも何かと街へ繰り出すことの多いエリオットは、すでに平均的な貴族と比べてみれば、随分と一般階級の人間の暮らしぶりが見えていることだろう。

市街地に住む人々は一貴族の――ましてやその息子の顔などいちいち記憶してはいないから、有名人らしい扱いを受けて息苦しさに負ける心配も無い。昼間ならば比較的治安の良い首都レベイユだけあって、この街には彼と似たような境遇の貴族がよくお忍びでやって来たりもする。

ともかく街自体が概ねそんなふうだったから、近頃ナイトレイの屋敷に居心地の悪さを感じることの多かったエリオットにとってもまた、この場所はある種の気分転換のような役割を果たしていたのだった。

「……それで、エリオット。今日はどのくらい居るつもりなの?」

あんまり遅くなるとお姉さんに怒られちゃうでしょ。大して気に留めたふうもなく言ったリーオに、エリオットは気の無い様子で返事を返した。

「さあな。とりあえず日が暮れる頃には戻れば良いだろう」
「またそうやって。君、そう言って時間通りに帰ったことなんかあったっけ?」

なんて、まあ僕はいいんだけど。心の中で呟きながら、リーオは見た目大きなソーセージ入りのパンに遠慮ひとつなくかぶりつく。汚れてしまいそうなものはとっくに鞄にしまってあるけれど、膝元に何かが落ちるとつい気になってしまうのは、もはや条件反射みたいなものなのだろう。

「……会った頃からそうだよね、エリオットは」

からかいと懐かしさを言い含めてから笑って、リーオはまだフィアナの家に出入りしていた頃のエリオットを思い出す。迎えの時間が決まっているのに時間を忘れてピアノを語って、ことあるごとにお兄さんに怒られていたことも、いまでは少し懐かしい。

――そう、いつだってひとつのことに責任感を持ちすぎなのだ、エリオットは。幾分勝手に結論付けながら、リーオは自身の意見に納得したように小さく頷く。

ナイトレイ家での立場のことだってもう少し気負わず生きて行ければ良いのだろうに、持ち前の使命感が災いし、こと末っ子にあらぬ気概をエリオットにもたらしてしまう。末っ子なら末っ子らしく、もうちょっと気ままに生きたっていいのに。そんなことを思いはすれど、それを伝えたところでたぶん、エリオットは首を縦には振らないのだろう。

――って言うより、説教されるかもね。思いながら、リーオは主人が大声で誇りを語り、衆目もはばからずに演説する光景を想像する。リーオには自分の家系に対して誇りを持つ気持ちは今ひとつ分からなかったけれど、それを思えば最低限、今しがたの想像を実現させることだけは避けたいと思えた。

「……本当、どうしてキミってそうなの」
「は?」
「……って、こういうとき、君のお義兄さんがよく言うけど。あれって昔からそうなの?」
「ああ……ヴィンセントのことか。あいつのことはよく分からん。昔から言いたいことだけ言ってオレの前から消えやがるからな」

そこでふと思い出したものだから、リーオはほんの何気なく、エリオットの義兄がよく使っていたその言葉を口にしてみる。「どうしてキミってそうなの」。諦めたように、または呆れたように口に出されるそれは、大概エリオットに対してのみ使われる文句だった。

「ふうん。……まあ、君に呆れる人がいるのも頷けるけどね」

からかい混じりに言ってから、リーオはヴィンセントが常日頃使うその言葉の意味をかみ砕く。彼は元々無計画な人間を相手にするのがあまり好きではないようだから、おそらくエリオットの向こう見ずさに付いていくことが出来ないのだろう。――かと言って、執拗に緻密な計算を繰り返す人間もまた、あまり好きではないようだけれど。

とは言え時折話し相手になってくれようとするあたり、彼は本気でエリオットのことを嫌いではないのだろうともリーオは思う。「家の連中はあまりあいつらを歓迎しちゃいなかったけどな」とは、いつだったか聞いたエリオットの言葉だ。養子に出されて浮いていたらしい彼に対して、唯一ぶつかって行ったナイトレイ家の人間というのがエリオットなのだということも、リーオはすでにあちらこちらで耳にしていた。

「……言っとくがな、オレだって相当おまえに足止め食らってるぞ、リーオ」

そうして取り留めなくもリーオが過去のそれについて考えているうち、エリオットが横目でそんなことを呟いた。まるで自分だけが破天荒な振る舞いをしているかのような表現をされたことが心外だったのだろう。

いかにも不服といった様子で投げ掛けられるそれはしかし、リーオにとってあたたかみにこそなれど、取り立てて反撃の一手には成り得なかった。

「あれ、そうだっけ?記憶に無いなぁ」

エリオットの勘違いじゃない?そうしておどけたようにリーオは言って、反面、今まで何だかんだとエリオットを困らせてきた、その数々の実績を思い返してみる。彼はどんな無茶を言ってみても結局最後まで付き合ってくれることが多いから、多少無理な要望もつい押し通そうとしてしまう。

ああだこうだと文句を言いながら、エリオットなりに僕の希望を通そうとしてくれるそれは、正真正銘エリオットの優しさだ。そこに他意は無いのだろうと知ってもいるし、ただただ不器用なだけで、エリオットはいつだって、この上なく誰かを思いやれる尊さを持っている。

――いつも勢いに包み隠してしまうから、最終的にその優しさにあまり他人が気付かないだけなのだ。思いながら、リーオはレベイユの街並みを眺めるエリオットの横顔を垣間見る。相変わらず不機嫌そうではあるけれど、代わりに本気で怒っているという雰囲気もまた見られない。

「暇さえあればあっちへ行ったりこっちへ行ったり、それで何度帰りが遅くなったと思ってる」
「えー、でも駄目って言ったことないじゃない、エリオット」
「……止めても聞かないのを分かってるからな」

ふう、と溜め息を落として、やれやれと言ったふうにエリオットは首を振った。これだけ長い付き合いになると、どの程度で説得を諦めるべきかの判断力が嫌でも身に付く。リーオは一旦何かに興味を持つと調べなければ気が済まない性質だし、それを阻害されることをこの世の何より嫌うのだ。要は少々自己中心的な側面があると言ったところで、それゆえ方々でエリオットは彼に振り回されているのでもある。

――それでも悪い気はしないあたり、随分慣らされてしまったものだ。自嘲しつつ、エリオットは出会った頃のやり取りを思い返す。以前はほんの少しの衝突でとんでもない大喧嘩に発展することがしょっちゅうだったし、逆に言えば、当時はそれくらいでしか意思の疎通が図れなかった。

もちろん今でも言い争いなどは数え出せばきりが無いけれど、最近のそれらはあの頃とは少し原因が異なっている。どちらかがどちらかを思いやるあまり、結局食い違って言い争いが起きてしまうのだ。不毛な争いと言われればそれまでだけれど、元来が少々皮肉屋っぽいリーオと、直情的で自分に正直なエリオットでは、どうにもいざという時に歩み寄れなくなることが多々あった。

「やだなぁ、別に照れなくたっていいのに」

何だかんだ言っていつも観察に真剣じゃない、君だってさ。エリオットの思考に被せてはらはらと、背景に花を咲かせたような軽快さで冗談めいてリーオが言えば、心底呆れたふうにエリオットはどんよりとしてその肩を落とす。

けれど真に照れている、と表現するべきなのは、こんな調子で茶化して場を流してしまう自分の方だ。リーオは思う。エリオットの優しさに感づかない周囲に少しがっかりもするけれど、同時にあまり気付かれたくもないと妙な独占欲が横槍を入れる。

――エリオットが僕だけに時折見せる、少し踏み込んだ素直な優しさ。そんな単純なことにさえ優越感を覚えてしまう僕自身は、やっぱりあまり優しくはないのかもしれない。

「しかし、さすがに庶民に手の届く原材料を元にしているものだと安物の味がするな」
「当たり前じゃない。大体、君の家の最高級ソーセージと街角のパンを比べること自体が間違ってるよ」
「ああ、いや。それは分かってはいるんだが、何と言うか……」

言いかけて、続く一文を見つけられずにエリオットは言葉を切った。いや、これはこれで悪くない。そんなようなことを言いたかったのだけれど、懐かしさにも似たその感情を何と呼ぶのか分からなくなって、止める。

「……何、庶民の暮らしも悪くないな、って?」
「ああ……まあ、そんなところだ」
「ふふ。変わらないね、エリオットは」

誰よりも貴族にこだわっているように見えて、誰よりも貴族からかけ離れたすべてを受け入れる。もちろんまだまだ理解の及ばないところなんて多々あるのだろうけれど、その姿勢だけはひたすらに前向きで、眩しい。

「僕は駄目だな。未だに分かんないや」

エリオットの言葉を受けてリーオがそう返せば、エリオットは特に気に留めた様子もなく「オレが不自由してないんだから、別にいいんじゃねぇのか?」とぽつりと返す。

実際、この国の貴族の風習には到底理解できないようなものが多数存在する。公的にはそれらしい振る舞いをすることが出来るけれど、リーオはその奇妙な慣例を心から受け入れることが出来ないのだろう。元来堅苦しいことや面倒ごとが嫌いなリーオだったから、体面ばかり気に掛ける偽りの世界が性に合わないのも無理はない。

「まあ、おまえは平民の出だからな。あまりこっちの世界に馴染まれても困るが」
「うわぁ……聞く人が聞けば死刑宣告だよ、そのセリフ」

エリオットの言葉にまさにどん引き、といった様子でわざとらしく口元へ手をやったリーオに、彼は一瞬眉を顰めかけて、すぐにそれを思い留まる。リーオには自由でいてもらわねば困るのだ。リーオの心情うんぬんの前に、ただ――誰よりエリオット自身のために。

「……おまえはあの礼儀作法の苛立たしさを知らないからそう言えるんだろ」
「あー……僕だって一応一通りのマナーくらいは知ってるよ?君に付いて何度も社交界には行ってるんだし。……まあ、出来れば本当に必要な時以外はパスしたいところだけど」

言って、苦々しげな表情を浮かべてリーオは回想を試みる。

今日はよく晴れていますね。きっと天が私たちを祝福してくれているのでしょう。ところで、最近ますますご活躍されていると伺っておりますが、その後はいかがお過ごしですか。ありきたりな美辞麗句が当たり前のように飛び交う貴族の社交場は、とても堅苦しくって敵わない。

「たしかに、あの世界に比べたら庶民は気楽でいいかもしれないけどね」

思い出したのか溜め息を落としたリーオに、並んでエリオットもひとつ盛大な息をついた。人の多い場所が双方あまり好きではないせいか、非日常についての認識はいつでも概ね一致している。

「……まあでもこの街に来るなら来るで、注文の仕方が分からないから、っていつも僕と同じやつを頼むのは止めてほしいところだけど」

そうして掴んでいたパンの最後のひと口を放り込み終わってから、いかにもな調子で付け加えるようにリーオは言った。

エリオットと言ったら毎度毎度、屋台で希望の物を注文する方法が分からないからとリーオに全てを任せっきりなのだ。おかげで先日、とうとう貴族の出であることがバレそうになって、近隣ではほんのちょっとした騒ぎになったりもした。その時はどうにか難を逃れられたから良いものの、今後のことを考えれば何とも気が重い展開には違いない。

「……それさえ約束してくれるんだったら、毎回ここに来てること、お姉さんには黙っていてあげるんだけど」

君のお姉さん、エリオットにはあまり街中に出てほしくないみたいだしね。そんなことを呟きつつ、ほんの少し苦笑気味にリーオは思う。

――なんてね。エリオットが黙っていろって言うんなら、どのみち従わざるを得ないんだけど。

「前から思ってたが……おまえ、そういうところは卑怯だよな」
「……そう?僕にしてみれば君のほうがずっと卑怯だと思うけどな」
「ああ?何でだよ」

さあね、何でだと思う?エリオットの言葉にリーオがちょっと笑ってそう言えば、エリオットは意味を量りかねたのか、訝しげな視線だけをリーオに寄越した。

――君が君だからに決まってるでしょ、そんなの。

それだけで、結局僕は君に逆らえもしないんだ。心の中で白旗を揚げつつ呟いて、リーオはレベイユに広がる青色の空をふと仰ぐ。

晴れ渡り穏やかに凪いでいく風が、昼下がりにとても心地よく思えた、気がした。