変わりゆく青

書類を取りに入った執務室で、リーオは珍しい人物に出くわした。日頃あまり言葉を交わすことは無かったが、立場上、顔だけはよく知っている。彼の主であるエリオットの義理の兄、ヴィンセントの従者エコーだ。

「珍しいね、こんなところで会うなんて」
「あなたは……エリオット様の従者ですね。」
「そうそう、名前はリーオ。って、あれ。覚えててくれたんだ」

自身の身分を適切に記憶されていたことに、リーオは少し驚きながらも答えを返す。何しろ必要外の事柄に対して全くといって良いほど興味を持たないエコーは、ナイトレイ家の人間でさえ、時に敵と見間違い手を下しかけることがあるのだ。

話に聞くところによれば、彼女は生まれた瞬間からナイトレイ家に忠誠を捧げていると言う。心のない言動や無機質な人形のような振る舞いは、この家によって意図的に造られている。それを考えると、同じくこの家に仕えるリーオでさえ、この家にどこか漂う不気味さを感じずにはいられなかった。

「エコーは……あなたのことを前から知っていますから。」

無表情なりに少し俯いてみせたエコーは、もう何度も繰り返したあの日の言葉を今再び思い返していた。『無関心でなければ、それはもう無関係ではない』と。オズが力強く言い放ったあの日から、エコーは自分の中で少しずつ何かが変わってきているのを感じていた。

それは、彼女にとっては得体の知れなさ故に恐怖だった。けれど、同時に何か言いようのない感情が湧き上がってくるような感覚でもまたあった。

彼女はまだ、その感情の名をよくは知らない。知らないけれど、芽生えつつあるそれが、これまで誰からも与えられたことのないものだと言うことだけは理解が出来る。

「君、今日は何の用事?僕の探しに来た資料もたぶんそのあたりにあると思うんだけど……」

エリオットが持って来いってうるさくてさ。困っちゃうよ、本当。そうやってわざとらしく溜め息をついたリーオは、彼女の居る棚に近付き、上から順に本の背表紙を目で追っていく。

黙り込んだままのエコーを気にすることもなく黙々と作業を続ける様子は、彼女の主であるヴィンセントとはまた異なるマイペースさだ。他人のペースを嫌うのではなく、他人のペースを気にしない。

「……何と言う本ですか?」
「んー、百年前のナイトレイ家の文献だよ。たぶんあるだろうって聞かされて来たんだけど……」
「……そうですか。その書物はあちらの棚、上段から二番目の右から四十九冊目に収納されているとエコーは記憶しています。」
「へ……」
「どうかしましたか?」
「あ、ううん。君、もしかしてこの資料室の本を全部覚えてるの?」
「……そんなことは現実にありえません。……その文献はつい先日、ヴィンセント様がお使いになられましたから。」
「ああ、なるほど……そっか、ありがとう」

そのまま礼を残してのんびりと示された棚へ向かうリーオを、エコーは複雑な表情でじっと見据えた。自ら彼に答えておきながら、どうしても今しがた自分の取った行動が不思議に思えてしまう。探しているなら探させたまま放っておけば良いものを、どうしてだかそうすることが出来ないだなんて。

エコーが一番最初に自分の行動を奇妙だと自覚したのは、シャロン=レインズワースをさらったあの一連の事件の時だった。自らが主人の命でさらって来た人間を、彼女は理不尽な言葉に逆らって自ら助けてみせたのだ。

それは、それだけで、彼女にとっては十二分に理解の及ばない行動だった。ただあの時は、かつてないほどに必死だったことだけをよく覚えている。

誰が死ぬとか、誰が生きるとか、あの場でそんなことはどうだって良かった。ただ、何となく主人の行動を「間違っている」と、そう思っただけだったから。

「……あ、あったあった。君の記憶力ってすごいね。僕だけだったら今頃反対側の棚を探してたかも」
「いえ。当然のことですから。」
「……でも、僕の手に渡るといろいろ困るかもしれないよ?」

なんてね。そう言って少し影のある笑顔を浮かべたリーオは、すぐには資料室から出て行こうとはせず、再びエコーの近くの棚で見慣れぬ文学を手に取っている。

過去を知りたいんだって、エリオット。そう何気なく呟いたリーオの言葉を聞いても、今は彼の持つ本を取り返すような気力が湧き上がっては来なかった。

もしこの事実が明るみに出たとしたなら、彼女の主人は彼女を罰しようとするかもしれない。けれど、先日エコーにヴィンセントが申し付けた命令は「執務室の隅の方の棚にこの本を戻して来てね」と、ただそれだけだったから。だから、たぶん平気だ。

「……ひとつ、エコーはあなたに聞きたいことがあります。」
「ん、僕?何かな?」

改まったように、毅然とした様子でエコーはリーオを呼び止める。不思議そうな表情でゆるりと彼女を振り向いたリーオは、確かにナイトレイ家の人間、なのだけれど。

「あなたは、エリオット様の従者なのだとエコーは知っています。……ですが、エコーはあなたのような従者を見たことがありません。」

それぞれ同じ家の兄弟に仕えている身の上のはずなのに、彼女の目に映るリーオは彼女と違ってこの上なく自由だった。

根本的な主人の性格の相違はもちろんあるけれど、それでも一般的に見れば、従者を従える主人というのは従者との線引きを明確にしていることが多いと言うのに。

「あはは。この間もエリオットに言われたばっかりだよ、それ。『オレが主人じゃなければお前は一日でクビだぞ!』ってね」

そうしてエコーがありのままを問うてみれば、隣り合うリーオはそれが当然とでも言うかのように主人を呼び捨て、軽快な調子でひとつ笑った。それ自体がもう既に、エコーにとっては理解の及ばない領域だった。

エコーにとってヴィンセントという「主人」は古くからのしきたりのように絶対的なもので、心でどう思っていようと、彼女にとって彼は常に服従すべき存在だった。エコーがそう思っているように、ヴィンセントもまたそう考えていることは、この家の誰もが知っている。

だからこそ、リーオのように主人を呼び捨てるなど、彼女にしてみればもってのほかだった。それだけではない。彼を従者と称しておきながら、まるで自身と対等であるかのようにリーオに接してみせるエリオットもまた、エコーにとっては理解に苦しむ存在なのだ。

「あなたにとって、エリオット様とは何なのですか。……エコーには、貴方がたのことがよく分かりません。」

先ほどに続けて真摯に投げ掛けられた疑問に、リーオは一瞬だけ面食らったような様子を見せる。真っ直ぐに疑問をぶつけるエコーは、いつまでもたどり着かない答えに戸惑っているようにも見えた。

彼女にとっては、自分の周りが世界のすべてだ。あるいは、彼女自身が主人の世界になろうとしているような危うさをも感じさせる。人形として動くことで、主人の望む世界を作る。それ自体が自分の存在理由だと思い込み、そのことが正しいとか、正しくないとかはたぶん、彼女の知ったところではないのだろう。

通常とは違った切り口から飛び掛かって来る質問に、すぐにはどう答えて良いかが分からず考え込むような仕草をとって、リーオはやがてゆるりと笑う。従者として自己犠牲的な生き方をするエコーに対して、彼は従者として苦しみや、悲しみや、それからすべての喜びを共にする道を選んだ。

「僕にとってのエリオットはね……ご主人様であり、友人であり、仕事仲間みたいなものでもあるし。……とにかく何よりも僕の大切な人、になるのかな」

ごく短い時間で捻り出されたリーオの回答は、それと反してとても誇りに満ちていた。

結局、主人だから大切なんじゃなくて、僕の大切な人だから大切なんだよね。そう言い切ったエリオットは、至極満足そうににこりと笑っている。

「そう、ですか。エコーにはよく分かりませんが……」
「うーん、ごめんね、上手く言えないけど」
「……ですが、ある部分では理解が出来ました。エコーとあなたとでは、どうやら従者という言葉の受け取り方が違うようです。」
「あはは。……うん。まあ、でもそうなるのかな」

少しずれた結論を抱いて、エコーは釈然としないままで無表情を浮かべ続ける。目の前のリーオは自身の喜怒哀楽を隠そうともせず、主人の話題に朗らかだ。

ああ、それにしてもなんて幸せそうに笑うのだろう、この人は。自分と違って。そう考えれば考えるほど、エコーはますます自分が分からなくなっていくような気がした。だって、元々幸か不幸か以前に、彼女は幸せだなんて感情は知らないはずなのだ。それどころかその身は喜びも、悲しみだって覚えはしない。

知っている確かな感覚と言えば、せいぜい痛みくらいのものだ。だったら、自分と彼がいくら違っていようが関係ないではないか。

「君は僕のお人形さん。僕の言うことだけ聞いていればそれだけでいいから」と。いつだったか主人がそう言ったように、このまま従順であり続ければいい。否、そう在ることしか出来はしない。

出来はしないのだ。勝手に歩き始めた人形になど、何の価値も無いのだから。

「あ。そういえば君、随分前に僕が言ったことを覚えてる?」
「……あなたが、ですか?」
「うん。まあもう何年も前だし、覚えてなくても無理はないんだけどね」

掛けられた言葉に反射的に「知りません」と言いかけて、エコーはそれを思い留まる。けれど、少し考えてみても、彼女にはリーオと直接言葉を交わした記憶が思い当たらなかった。

途切れ途切れの記憶は思い起こすのが難しいけれど、エコーは必死に抗い、何とか自身のそれを遡り始める。けれど、リーオが「僕がこの家に仕え始めた頃かな」などとぽつりと言う間に自ら記した日記帳を捲ってみても、やっぱりそれらしい記述は見当たらなかった。

「……それでも君、あの時より、ちょっと変わったのかもね」
「え……?」

あ、もうこんな時間。それじゃあ、僕は行くよ。何気なく時計を確認したリーオは指し示された時刻に盛大に驚いて、最後にもう一度だけエコーに礼を残し、数冊の本を抱えて慌てて資料室を出て行った。

瞬く間に元の静寂が広がった部屋で、エコーはひとり立ち尽くす。窓から見えるこの空は、目映いほどの光に満ちて、青い。

「エコーが、変わった……?」

告げられた言葉に戸惑いでいっぱいの顔をして、誰もいない空間には疑問ばかりが溢れ出す。

「いつか、自分を変えるような人に君も出逢えるよ」と、確信めいて言ったリーオの言葉。それを忘れたままの彼女に、その意味は伝わらなかったのかもしれないけれど。

「無関心で、なければ――」

力強い人の言葉が、繰り返し、繰り返しエコーに跳ね返る。

それがいずれ彼女を変えていくことになるのだと、彼女はこの時まだ知らない。