暗がりと世界

ヴィンセント様に「君は要らない」と、そう言われた瞬間に、エコーは彼女を止めることが出来なくなってしまいました。内側に押し込められたエコーは、それでも所詮、反響音ですから。悲しいはずはないんです。だから、泣くことにも意味なんて無いはずで。

なのに苦しさを止められない自分のことが、エコーにはよく分かりません。分からないまま、外側の世界を何も出来ずに眺めています。

「……ヴィンス坊やが自分から他人に会いに行くだなんて、何を考えてるのかしら。ま、どうせロクな目的じゃないんでしょうけど」

少し前にヴィンセント様がお出掛けになってから、部屋に残ったロッティさんはヴィンセント様のことをいろいろと話しています。

バスカヴィルの民とヴィンセント様が協力関係にあることについて、エコーは知っていても知らないふりをするよう言われて来ました。言いつけを破ればどうなるかは目に見えていましたし、背くことなど考えもしなかったので、今までこのことを誰かに話したことはありません。

「何してるのよ、ツヴァイ?」
「んーん?久しぶりに自分で動けるのがあんまり嬉しくってさ」

そのうち鏡の前に立ったツヴァイが、面白そうにエコーに語りかけてくるのが分かります。あちらの世界に出て行けたことが余程嬉しかったのでしょう。と言うよりも、ツヴァイはヴィンセント様に必要とされたことが嬉しかったのかもしれません。

エコーは、ヴィンセント様のことを鬱陶しいとは思いますが、嫌いとまで言い切ることは出来ません。ナイトレイ家に仕えているエコーですから、嫌うことなど許されないとずっと思っていました。召使いがヴィンセント様の悪い噂を始めても、部屋に誰も立ち入らなくなったとしても、従者であるエコーはヴィンセント様の命令を聞き続けなければなりませんから。

ですが、悪いところばかりではないことも、本当は知っています。余計なことを口にする権利などエコーには無いので、普段はずっと黙っていますが、ヴィンセント様がギルバート様を思いやる気持ちは本物なのだと思います。

真っ黒だけど、真っ白。ヴィンセント様はそんな人だと、エコーはいつも思います。

「……エコー、聞こえる?」
「……何ですか。」
「冷たいな。役立たずにしては態度が大きいんじゃない?」
「……エコーは、貴方のことが好きではありません。」
「ははっ、自分の力じゃ何も出来ないくせによく言うよね。ま、いいか。ボクが代わりにヴィンセントの役に立つから、お前はそこで黙って見てなよ」

こうして度々挑発してくるツヴァイをやり過ごすのは、エコーにとってはとても疲れる作業です。エコーはここに存在しているからヴィンセント様に尽くしているだけで、特に個人的な事情で仕えているのではありません。

虐げられるのも辱められるのも、褒められることも貶されることも、ヴィンセント様にとってはすべて「人形」への態度でしかないことを、エコーはちゃんと知っていますから。

「さ、一仕事行くわよ、ツヴァイ」

ロッティさんの声が聞こえて動き出すツヴァイと外の景色を、エコーはただ眺めています。サブリエへ向かうと聞いた瞬間、どうしてだか嫌な予感がしましたが、今のエコーにそれを伝える術はありません。

屋敷に戻る前、言えなかった言葉がわだかまっているのを感じます。今、オズ様はどうしているのでしょうか。これを「心配」と呼ぶのだとしたら、たぶんそのようなものなのだと思います。

初めて「楽しい」と思える時間を過ごせたことは、エコーにとって、悪いことではなかったように思えます。こうして内側に閉じ込められてしまっても、今回ばかりは苦しさにばかりとらわれずにいることが出来そうな気がするから。

「必要ない」と言われたことにも、何も感じないままいられそうな気がするから。







ツヴァイの身体を通して久しぶりに見たサブリエは、相変わらず暗く淀んだ場所でした。晴れ間もなく、暮らしている人々はみな希望を失くしたような表情をしています。

先ほど、新しい情報が入ったことを聞かされました。オズ様がこの場所に来ているらしい、と。それを聞いたとき、何故だか胸がざわついたような気持ちになりましたが、エコーはこの感情の名前をよく知りません。

「ナイトレイのあの子も来てるみたいね。名前、何て言ったかしら?前に会ったときは散々な目に遭ったけど……そう、エリオット=ナイトレイね」

ロッティさんが言うには、ギルバート様やアリスさん、エリオット様、それからその従者のリーオさんもこのサブリエに来ているとのことです。

ロッティさんやバスカヴィルの民は、ナイトレイ家の人間にはあまり手を出したがりません。ですが、先日ラトヴィッジでエリオット様に手を出してからは、それも少し薄れてしまった、と言うようなことを話していたのを覚えています。

ヴィンセント様の願いがあるので、ギルバート様はおそらく殺されたりはしないのだろうとエコーは思います。オズ様は、アヴィスを手に入れるために重要な存在なのだと聞きました。だからオズ様のことも、どんなことがあっても殺したりはしないのだ、と。

エコーはよく分かりませんが、せっかくサブリエに来ているならオズ様を誰かに逢わせる、というようなことも、先ほどロッティさんが言っていたような気もします。

「……にしても、おかしいわね」
「何が?」
「あの子たち、やけに正確な道を進んでいるの。ベザリウスの坊やなら分かるんだけど、普通の人間にはあの道を真っ直ぐには進めないはずだわ」

いま二人が話している「あの道」の先に何があるのかは、ツヴァイを通じてエコーは知っています。アヴィスの扉。そこには、バスカヴィルが所有するアヴィスの扉があるのです。

エコーがどうこう出来るような代物ではないので元々特に興味はありませんが、ヴィンセント様にきつく口止めされているので、これも今までに口外したことはありません。

ただ、最近少し思います。もしもこれをオズ様たちに伝えたとしたら、きっといろいろなことが変わってしまうのだろう、と。

「ツヴァイ、坊やたちがあの方のところにたどり着けないようにするわよ」
「殺すの?殺していいなら簡単でいいよね」
「アンタねぇ……。まぁ、いいわ。どうにもならなくなったらそれもひとつの方法かしら。あの子たちにはこの間のお礼もあるしね」

この間、とはたぶん、ラトヴィッジの時のことでしょうか。ロッティさんはやっぱり、エリオット様たちに手加減する気を失くしてしまったようです。

敵側につく人たちが、すべて悪だとはエコーは思いません。エコーにとってヴィンセント様は絶対ですが、ヴィンセント様の敵を憎いとも思いません。仕事で敵を殺すことはあっても、エコー自身が誰かを憎んで誰かを殺したことは無いのです。

「……行きましょ。急がないと、このままだと先を行かれるわ」







「う、くっ……」

唐突に、鈍い痛みが、走る。自分の身体では無い身体でも、傷を負った時に痛みや苦しみが伴うことは今までだって何度もあった。だけれど、これは。

途切れそうな意識のままでツヴァイが振り向いたそこには、レインズワース家の従者、ザークシーズ・ブレイクが立っていた。見事に貫かれたツヴァイの胸から血が溢れているのが見えて、何故だか冷静になってしまう自分はやはりどこまでも無感情なのだろうと今、思う。

内側にいる自分はたぶん、ツヴァイよりはずっと痛みが薄いのだろうとは思うけれど。それでこの痛みでは、彼女はきっと立ってはいられない。表に出ているツヴァイの意識が消えたとき、「エコー」という人間は何も見えない暗闇に閉じ込められたままになってしまうことを知っている。

そのとき、自分なんて無いも同然になってしまう。今まではそれで別に良かった。「反響音」なんて、いつ消えたって構いはしなかった。苦しみも悲しみも嘆きも痛みも、私にとっては何の意味も無かった。常に代替品だった私に意志なんか無いから。意味なんか無いから。ましてや喜びだなんて、そんな曖昧で不確かな感情。

「……っ」

それなら、今どうして消えたくないと願うのだろう。どうしてひとりの顔ばかり浮かんで、どうして同じ言葉と笑顔が離れなくて、こんな、こんな今更になって、自分に意味を求めたくなってしまう。ああ、愚かな。なんて愚かな人形に、私は。いつから。

「……報いは、きちんと受けていただかないと」

意識が、だんだんと途切れて行くのが分かる。次は、果たして目覚めることが出来るのだろうか。

――オズ、様。

届かないと分かっていながら、新しい世界をくれた人の名前を呼んでみる。もしも。もしも、次にこの身が生きながらえて、「エコー」として目覚めることが出来たなら。

――あのときの続きを言えたらいいのに。今度は、今度こそ、エコーの意思で。この、言葉で。