水彩性幸福論

雨の降る午後のこと。ヴィンセントが外出するというので部屋に残された二人は、流れ行くまま沈黙のひと時を過ごしていた。何しろ彼女は必要の無い話題を振りまこうとはしなかったし、彼もまた、取り留めの無い話をしようと言う気は起きなかったから。

――無音の空間にはどことなく重苦しい雰囲気が漂う。気まずいというわけではないけれど、どことなく張り詰めて、空虚な感覚のする風景。

エコーは動き回ることもなく窓際に掛けたまま、降り続く雨を見つめていた。人形である自分には、主人の命が無ければ取り立ててすべきことも見つからない。となれば無駄な消耗は避けるべきだし、此処に居れば、いざという時にリーオ様を護ることが出来て効率も良い。そんなことを思いつつ、エコーはじっと冷えて行く空の向こうを見やる。

雨が降ったから憂鬱だとか、澄み渡る空が美しいだとか。そういった類の感情を、彼女は二度しか持ったことが無かった。――一度目はブリジットデイのあの日。二度目は、ささやかな宴の催されたあの時。そのたったふたつの時にだけ、心がひどく揺れ揺れた。

ふわふわと浮かぶ雲の下を歩き、色とりどりの花火に感動を覚え、生まれて初めて心からの感謝を述べかけたあの路傍でのこと。晴れ渡る空の下に冴えた、見慣れた人々の笑い声。――新しいはずのその記憶は、すでに遠い昔のことのようだ。

「……ブリジットデイ……」
「ん……?」
「雨が、……降っていました。……一昨年の日は。」

ふと思い返すようにぽつり。呟いたエコーに、リーオはゆるりと注意を向ける。誰に聞かせるでもなく、けれどたしかに話しかけているふうのエコーの言葉を、リーオは黙って聞いていた。ブリジットデイ。少し懐かしい響きのその言葉は、それでも、先日通り過ぎた毎日のはずなのに。

「その日は……三年前より、何千人も少ない人通りでした。」

エコーの記憶によれば。言って、エコーは思い返すようにゆるゆると瞬きを繰り返す。

――毎年のこと。毎年のことだった。エコーはあの屋根の上から人々を眺め、流れゆく雑踏を気の向くように記録し続けた。ただ一点、自分が存在する瞬間を忘れないように。

それが何の目的をもって為されることなのかについては、エコーは今でもよく分からずにいた。――強いて言うなら必要だと思ったからそうしていた。ただそれだけのことだった。

一度、その意味を真剣に考えてみたことがあったけれど、明確な答えが導き出されることは結局無かった。自分を失うことで、主人の計画を潰すことを負い目に感じるわけでもない。かといって、消失することに恐怖や悲哀があるわけでもない。

けれど、ひたすらに彼女は記録を続ける。――その意味に、今も昔も気付かないまま。

「去年は、晴れていたようです。……エコーは詳しく知りませんが。」

ツヴァイが楽しそうに笑っていたのを覚えていますから。そうして表情ひとつ変えずに語るエコーには、特に何の感傷も抱かれていないようにリーオには思えた。淡々と事実を語る感情の無い瞳。青に澄んだそれは壊れ物のように真っ直ぐで、それなのに、ただ無彩色に閉ざされている。

「……今年も晴れてたよね。今まで、見たことないくらいに」

それきり後に続かないエコーの言葉を繋ぎ合わせて、リーオは視線を変えずに呟いた。今年の聖なる一日は、ともかく澄み切って凛とした祝福をもたらした。全ての人間が福音を信じてしまいそうな心地良い青空の中で、たった数ヶ月前の彼らもまた、絶対の幸福を手に取りかけていた。

――けれど、それもまた仮初めとしか今は思えない。息をつく余力もなく、リーオはそっと目を伏せる。おそらく、彼女にはそんな感情すら湧きはしないのだろう。

――いや、気付けていないだけなのかもしれない。思って、やり切れないふうにリーオは自身への嘲笑を贈った。だって、知ろうとしていない感情が無抵抗に呼び起こされる感覚を僕は知ってる。茶化すのも、からかうのも、それこそ心から笑うことの意味だって、君が教えてくれたこと。

永遠を願うのも、一瞬を止めたくなってしまうのも、そんな独りよがりな想いを抱くようになったのも、全部が全部、君のせい。

一度知ってしまえば戻れない。何かに無関心でいること。隔絶されて存在すること。誰をも傷つけない孤独な日々を、今は幸福だと思えない。

――それでも、許されない。日常を望むこと。平穏を抱くこと。それそのものが。

「……わかりません。」
「うん?」
「大切だと思うもののために、命を賭すことは幸せなのですか。……エコーには、わかりません。」

唐突に落とされた言葉に、リーオはぴたりと動きを止める。

一見理解出来そうなヴィンセントの感情が、彼女にとっては疑問となって跳ね返る。何しろエコーにとってそれは義務であり、義務でしかなかった。ヴィンセントの手足となって、必要とあらば主人である彼のために朽ちる。それは従者として当たり前の覚悟ではあるけれど、感情の上に成り立つものでは決して無いのだ。

命を捧げること自体を疑問に思ったことは一度も無いけれど、だからと言って、他者の幸せのために自らが命を絶ちたいと、そう願う気持ちなど分かりはしない。少なくとも。

「幸せ、っていうか……そうだね。結局は自己満足だって分かってるつもりだよ。ただ、それでも自分を許せないだけ」
「……そんな貴方のことも、エコーにはよくわかりません。……ですが、ヴィンセント様のことは、もっと理解できません。ギルバート様は生きているのに、ヴィンセント様は何を望むのですか。」

そこまで言って、エコーにひとりの姿が過ぎる。前を見据える彼もまた、何かを失えばそうなってしまうのだろうか。人間とは得てしてそういうものなのだとしたら、自分には、欠けてしまって何一つの理解が出来ない。

「……貴方も」

そうありたいと願うのですか。リーオの答えが返らぬうちに、エコーはさらに言葉を続けた。

自分の存在を犠牲に過去へ回帰して、いったい何になると言うのだろう。全てが振り出しに戻ったところで、ヴィンセント様の存在の無い新しい世界のもとに、今より凄惨な未来が待っているとも知れないのに。

「……僕は彼のようにはなれないよ。彼は、僕よりずっと純粋だから」
「純粋……。」
「うん。……たぶん、彼は否定すると思うけど」

答えを受けて、エコーは意味がわからない、といったふうにリーオを見やった。エコーがこうしてリーオの傍にあるのは、ヴィンセントがリーオの傍にあるからだ。つまりはこれもまた義務。当然のごとく、二人の行動理由を突き詰めて追及してみたことなど一度も無い。

今あるものを打ち壊して、滅びをも無にして全てを創りかえる。それを望むヴィンセントが純粋と称される、その意味を推し量れない。

エコーにとって、リーオの言葉はヴィンセントのそれ以上に頑なで、難解だった。流暢につむがれるヴィンセントの恨み言とはまた異なって、リーオのそれは世界に執着していない。何者も恨んではいないのに時折、すべてを嫌悪しているかのような鋭さを感じさせる。

「僕が世界に興味を持てないのはね、エコー。……この場所にエリオットが居ないから、ってだけ」

言ってから、リーオは空白の世界に想いを馳せる。

たとえば新しく生まれ直したその世界に彼が居たとするのなら、僕は共にありたいと望んでしまうだろう。この存在が彼を苦しめると理解しているのに、独りよがりな願いを捨てきれない。過去から受け取ってしまった繋がりさえなければと、彼の幸せを祈りながら、心のどこかでそう思ってしまう。

だから自分の消失だけを想うヴィンセントのように、決して純粋な存在ではいられない。こんなに色の無い世界の中で、彼が存在するその瞬間に僕はきっと、見返りを求めずには生きられなくなってしまうから。

「許されないことほど望みたくなるんだ。……罪深いだけ。本当に」
「リーオ様……?」

掴み所の無い様子に少しばかり不安げな顔をして、エコーは彼の名を呼んでみる。エコーにとって他者を知ることはそれほど重要ではないが、どこか主人と似た雰囲気を纏う彼の挙動は、彼女に少しの緊張感を抱かせる。

「ねえ、エコー。君はさ、幸せだと感じたことはある?」
「幸せ……。」

それから身構えて少々。唐突にそんなことを問いかけられて、エコーは答えに逡巡した。

幸せ。その意味すら辞書上の言葉でしか言い表せない彼女にとって、その質問は答えに窮するのに十分だった。体験していたとして、気付けない。概念が存在しない以上、自分にその感情が存在したか否かすら、答えられない。――それが事実。別段悲しみも覚えない。

「……一般的に、幸せというのはどのような状態を指すものなのですか。」
「概念として、ってこと?……そうだね、簡単に言えば……楽しいとか、嬉しいとか。それの延長かな」
「楽しい、嬉しい……」
「覚えがある?」
「楽しい。……あれを楽しい、と呼ぶのであれば。」

青色の祝福の中を目的もなくふらりと歩いたあの日からのことだ。自分の中には存在し得なかった風景に心を動かされ、どことなく温かなものが胸に込み上げる。どうしようもなく目の前にあるものが大きく見えて、その先を体験したい衝動に突き動かされる。そんなことを「楽しい」と呼ぶのなら、それはあの日から、たしかにエコーの中に存在する感情だった。

それからもうひとつ。「嬉しい」にも覚えがある。あれはきっとはしゃぐような嬉しさではなくて、底抜けの安堵に少し似ている。他の誰でもなく自分に向けて、ひたすらに存在を肯定される。「一緒にいたい」と真っ直ぐに伝えられる、その少し痛むような温かさ。

「嬉しい、にも……覚えがあります。……一度だけ、ですが。」
「……そう。それじゃあ、エコー。……君はそれを奪わないでいて」

君自身から。言って、少し悲しそうにリーオは目を伏せる。

「それは、どういう……」
「僕は、……だめ。分かってるけど、もう埋められない」

幸せすぎたぶん、失った痛みがなおのこと心を壊す。存在が罪。その真実が全てを縛る。

今更どうにもならないことをしようとしている、と。たとえ理解していても、それを否定することさえ許してはくれない。――後悔するにはもう遅い。何もかも。

「分からなくても構わないから、約束して?……僕には君に裏切らないでとは、言えないから」
「エコーは、ナイトレイ家にお仕えする身です。裏切りなど……」
「うん。それでもいつか、迷う時が来るかもしれないから。……この言葉はその時に思い出してくれればいいよ」
「――。……はい。リーオ様が、そうおっしゃるのであれば……。」

一瞬の後。戸惑ったふうにエコーは答えて、様子を窺うようにリーオを見やる。裏切りを許そうとする人間なんて、世界中を探していったいどのくらい居るのだろう。

服従すべき部下の裏切りなど、本来の彼女の主人なら、おそらく制裁を下そうとするだろう。全てを失うことを願いながら、彼は世界に執着することを止めないから。けれど誰より絶対となったリーオの言葉が、今はそれさえも打ち消してしまう。

「……やはり、わかりません。」

貴方のことも、ヴィンセント様のことも、エコーは何ひとつ。ぽつりと落として、エコーは窓の向こうに視線をやった。

――雨はしとどに降り続く。相変わらず胸は痛まないけれど、どことなく重苦しく心に響く。

それが尚更不可解さをかたどらせたままで――エコーの無彩色をほんの少しだけ歪ませて、滲んだ。