アンエスケープ

前へ進むたびに傷だらけになって、待ち構える苦痛に喘ぐだけ喘いで。そんなことを幾度も繰り返して来たせいで、青空すら見失いそうなこの手のひらの空虚さが時々、とても疎ましい。ひとたび後ろを振り返れば、持っていたはずのものが次々と、とめどなく零れ落ちていることに気付かされる。

こんな毎日なんて、まるで虚しさだらけの不器用な生き方そのもの。――そうまでしていったいオレは何を掴もうとしているんだろうか、なんて。意味もなく考えてみたところで、明確な答えはいつだって目の前に存在してはくれない。

分かるのは自分自身がアリスの記憶を盾にしているということくらい。結局何に突き動かされて此処まで来ているのかも、今となっては曖昧なままだ。

――追い続けたって追いつかない。その正体を知ることも、本当は、そう。

「……怖い、のかもしれない」
「……ん?」
「オレさ、アリスの記憶を探したいなんてもっともらしいこと言って、ホントはホントの事知るの、……ちょっと躊躇うんだ。ずるいよね、ひとりに全部背負わせたりしてさ」

記憶の戻る苦しみは、何よりチェシャのところで思い知った。悲しみが流れ込んで、身体が冷え切って行く感覚は、怯えになりはしても喜びひとつ生み出しはしない。――だから、まだ伝えられていない。あれもまたアリスが求めた記憶だと知っているはずなのに、自分自身の恐怖のせいで、オレはアリスに事実を伝えることに今も抵抗を覚えてしまう。

絶望にあふれて気が触れてしまいそうな赤色の風景は、今も思い返すたびほんの少しのえづきを催す。あの血の海をたったひとり、当ても無く彷徨うことの孤独感と言ったら、たぶん想像を絶するものなんだろう。何しろ普通の女の子だったアリスに突然降りかかった血の雨だから。

――きっと、言葉になんてし切れないほどの。

「……オズ、お前はいつも思い詰めすぎだ」
「……ギル?」
「周りに頼れと振りまいて、お前が閉じこもってどうする。アイツはお前を信用しているんだろう」
「……それが怖いんだよ。オレなんてそんなに大した人間じゃないのに、気付けばやたらと信頼を置かれてさ。みんなそうだ。ジャックは確かに凄いけど、結局みんなが見ているのはジャックでしかない。……オレ自身の言葉は、届かない」

届くのは英雄の言葉だからこそ。必要とされているのはベザリウスの英雄の言伝で、魔法使いの威勢に取り合ってくれる人は滅多に居やしない。

自虐的と言われても、きっとそれが現実だ。――多分、昔からずっと変わらない。たったひとつ、それだけのことが。

「だが、ブレイクを変えさせたのはお前だろう、オズ」
「ん?」
「十年一緒に居て俺に何も話さなかったアイツがお前に合って多くを話した。……エコーもそうだ。アイツには自分の意志が無かったんだ。……昔から」
「エコちゃん?あぁ、あの日の……」

言われてふと気づく。ナイトレイに仕える彼女は立場上、確かにギルとも顔見知りで当然だろう。彼女があの日最後に初めて見せた、色のある表情はもちろんよく覚えている。

「エコちゃん、昔からずっとあんな感じなんだ?」
「……ああ。あいつはナイトレイ家に仕えることが全てだと思っているんだろうな」
「……そっか」

ふう、と何とはなしに溜め息を吐いてから、オレはブリジットデイのあの日のことを思い出す。初めて敵味方の概念なく接したエコちゃんは、相変わらずの無表情ではあったけれど、少なくとも「無感情」ではなかったようにオレには思えた。

「どうも、俺はあいつが不憫というか……」

主人がまた、な。少し躊躇ってから、付け加えるようにそう苦々しく言ったギルのその言葉を聞いても、オレは不思議とエコちゃんのことを「可哀想」とは思わなかった。周りの生き方に流されて流されて、そんな自分をどうにも出来ない在り方が、オレには痛いほどによく分かるから。

どうにも出来ないと諦めて、全てを受け入れることで生きてきた。それが所詮逃げでしかないことなんて、――それこそ、どうしようもないほど理解していたのに。

「じゃあエコちゃんは、……オレに、似てるのかもね」
「ん、何か言ったか?」
「ううん?……でも、そっか。うん。……そうなのかもしれない」

逃げと無感情に身をまかせた心が変化を受け入れることはひどく難しくて、時々、どうすれば良いかが分からなくなる。今分かったつもりでいてもどうせすぐに真実は見えなくなるに決まっているし、そのたびに、あの頃閉ざした扉の向こうへ心ごと預けたくなったりもする。

それでも、生きていかなければならない現実がある。昔のように全てから目を背けていれば、どうせ全てが朽ちてしまいそうな不安定な世界。幻想と欺瞞に満ちて、真相がどこにあるのかさえ不明瞭な毎日が、ここには当たり前のように流れている。

――それでも。それでも、決して終わりはしない。たとえ得るものより失うものばかりが増え続けて行ったとしても。たとえ、喜びの倍の数だけ悲しみが待ち受けていたとしても。

――どれほど誰かを傷つけても想っても、大きな流れを目の前に、いつか抵抗してやることさえ出来なくなってしまっても。ただ過ぎていく時間だけがいつだって、オレ達の意思なんて物ともせずに立ちはだかって来るんだろう。

黙っているだけでは、きっとこの先何ひとつ変わりやしない。――ましてや居もしない、ありもしない神様に祈ってみたところで。

「生きていかなきゃいけないってのはツラいよなー。ギルもそう思うことない?」
「……まあな」
「でも、逃げられるわけでもない。……なんて、それどころか選べもしないんだけど」

進むべき場所は、いつだって分かれ道にすらなってはくれない。行き止まりの先に見える僅かな光を懸命にたどって、どうにか次の道の手がかりを探すことしか出来はしない。

逃げることも許してはくれないし、立ち止まることも赦されはしないのに――進もうとすればそれはそれで茨が行く手を塞ぐばかりで。

ああもう、なんて生きにくい世界だろうかと。苦しさに溺れそうになるたびに、そんなことを思わされてばかりだけれど。

「……分かんなくなる。オレのやろうとしてることが正しいって思ったこと、無いから余計に」

他人には他人の正義があることを知っていながら、オレはいつだって、オレ自身の目的のためにそれを打ち砕こうとしているだけだ。それだって、別に自分自身が望んでいることを正解だなんて思ったことは一度もないし、本当のところ、誰かのように必ずしも譲れないものがあるわけでもない。

十年前に帰りたいかと聞かれれば、実際のところそれが心からの願いだと言い切ることも出来はしない。大義名分は確かにそのことにありはするけれど、根本的にオレが求めていることと言えば、それよりもただ「知りたい」だけなのだろうと思う。

オレが何者で、何のためにアヴィスに堕とされて、何の因果でアリスに出会って――いったいどの運命がオレをジャックと巡り合わせたのか。そんな、些細なようでオレを揺るがす数々の――痛くて優しい出来事の真実を、オレはただ知りたいだけ。

「……なんだって言うんだろ。知りたいのに怖いって思うんだよ。……それなのに、知ることを止めたいとはどうしても思えない」

とことん矛盾していると、自分でも思う。アリスに記憶を伝えられないのだって、アリスが傷つくからだなんてもっともらしい理由をつけて、結局はオレ自身が伝えることから逃げているだけだ。少しの真実と向き合うこともしないでその先を知りたいだなんて、都合が良いと思いはするのに。

「……ホントはさ、何が正しいとか、そういうのは存在しないんだろうなって思うんだ。オレが救いたいと思う人たちが、誰かにとっては殺したいほど憎い相手かもしれないんだし」

正義を語れば語るほど、誰かにとってはそれが奇麗事になってしまうような矛盾だらけの世界。上辺だけの言葉なんて、きっと誰の耳にも届かない。

誰かを守っていたいと願えば願うだけ、オレはたぶん誰かを傷つけていかなければならないんだと思うから。――それを疑問もなく受け入れてしまえるほど、自分自身が残酷な価値観に慣らされてしまった事実。――それを今更になって否定することも出来ない。

「だが、自分の正しさを信じなければ何も出来ないだろう。そんなことばかり考えたところで……」
「うん、分かってる。けどさ、それでも忘れちゃいけないって思うんだよ。オレが誰かを傷つけた分だけ、誰かの正義を踏みにじってるんだってこと」

それが誰かの信念を潰さなければならない人間の責任だと思うから。そんなことを話してみれば、ギルはちょっと困ったようにオレのことを黙って見やった。

「……大丈夫だよ、そんな顔しなくても。別に思いつめてやしないって」

言えば、ギルはそれでも心配そうな表情のままで、ほんの少しだけ視線を逸らした。

こんなことを思うたび、いつか来るその時のことを想像してしまう。誰かの命を奪うことを覚悟しなくてはならない時が、近い未来に来るような気がする。――そんな予感。

取るに足らないような些細な不安だ。だけれど、昔からこういう予感を外した覚えが無いせいで、こんな単純なことが、オレにぼんやりと未来への恐怖みたいなものを抱かせる。

「失くすことと奪うことはどっちが辛いんだろうな。……ギル、おまえはどう思う?」

ふいに思いついた問いを投げかけながら、オレは言葉にしたその一文の答えを考える。

――なんて。こんなこと、口に出した時点で答えは決まっている。たぶん、オレ自身は奪うことに苦しむんだろう。それが分かっているからこそ、導き出した答えに振り払いきれない嫌気が差すんだ。

オレが奪うことを怖れるのは、奪われる誰かのことを想ってなんかじゃない。ただただ単純に、自分自身が壊れてしまうことを怖がっているだけなんだ。誰かの未来を奪う重圧に耐えられなくて、それを背負いきれないことに臆病になっているだけだから。

「……ホント、弱いよな。考えれば考えるほど自分が嫌になる」

そうしてわざとらしく自嘲してみれば、言葉は渇いた響きのままで、静かに虚空へ溶けて行く。

思考に沈んだギルを横目に見ながら、オレは気付かれないように溜め息をひとつ。

「……俺は」
「……うん」

つかの間出しかけた言葉をまたすぐに引っ込めてから、ギルはその先を長く躊躇った。

――たぶん、ギルの答えはオレとは違う。それを思えば思うほど、オレは自分の浅ましさに辟易したくなってしまう。

奪われる人間の痛みを自分に重ねてしまう性質だから、ギルは失うことばかりをすごく怖がる。それは巡り巡ってギル自身のためになるものかもしれないけれど、反面、間違いなくオレ自身に向けられる感情でもあるんだろう。

オレが傷ついたり戸惑うことに、ギルは必要以上に怯えてしまうところがある。だからこそ、オレ自身はそういうこと全部をひっくるめて、奪う日が来ることを怖れているのかもしれない。

「……悪い、ギル。やっぱり今はいいや」
「オズ?」
「おまえの答えなんて聞いても、結局オレがどう思うかだもんな。……そういうのから逃げちゃ駄目なんだって、オレ、さっき自分で言ったばっかりだし」

それから幾ばく。返らない答えに内心焦れて、ふと思い立ったそれを切り出してみれば、ギルはやっぱり困ったような顔をして、オレの方を黙って見やった。

――あえて全てを言わせることで、ギルを縛ることをいったいどれだけ繰り返してきただろう。思うたび、それを知らずにいた過去の自分に愕然とする。

何気無い言葉が何よりも相手を縛り付ける。それがたくさんのものを壊してしまう瞬間を、この世界に来てから多く見てきた。――だから、もう駄目なんだ。何も知らずに振る舞えた、少し前の自分には戻れない。幼さが許されるような世界に生きていられる時期は、人よりずっと早く過ぎ去ってしまったみたいだから。

「……帰ろうか?もうこんな時間だ。アリスが待ってる」

自分で振った話題を半ば無理矢理打ち切って、オレは身勝手なふうにギルの数歩先を歩き出す。結局、どれもこれもが独りよがりだ。誰にどんな答えを求めてみても、オレ自身の恐怖が消えてくれるわけでも、ましてや誰かを癒すことが出来るわけでもない。

――問い掛けるだけで傷つけることになるのなら、いっそのこと全部背負ってしまえばいい。遠い昔から言い聞かせて来た呪縛のようなこんな言葉を、オレはまだ振り払えない。

「自分勝手だよな、ホント……」

誰にも届かないように呟けば、少しだけきりきりと胸が痛んだ。――もう、見ないふりをすることすら出来なくなってる。誰に答えを求めることすら出来やしないのに、自分の痛みから目を逸らすことさえ満足に出来はしなくて。

――ああ、がんじがらめだ。何から何まで。気付きたくもないそれに自嘲して、オレは雨の降り出しそうな、淀む灰色の空から逃げるように視線を逸らす。

――ぽつり、と。冷ややかなしずくが一滴、俯いた頬に触れた気がした。