リボン

夜半と似てよく冷える早朝、リーオは窓辺から澄んだ薄闇を眺めていた。夜が明けても突き刺すような痛みが抜けてくれないのは、全ての人間に与えられるものなのか、はたまた個人に付される罰なのか。正確なことは分かりはしないけれど、どこか物寂しい気分にさせられることだけは事実だった。

黒地の上着にぴしりと整えられた、紫のリボンが風に揺れる。開け放った窓からは時折強めの風が吹き付けて、今は美しいその髪色をもいくらか揺らす。

――カタン、といった物音にリーオが振り返ったのは、それから幾分も経たない頃のことだった。

「……早いね?」
「……眠れなかっただけだよ。あんまりね」

そう言ってくすり、と笑ったリーオに、現れたヴィンセントも鏡のように微笑を返す。

どこか冷め切ったリーオの笑顔を受け取ることは、ヴィンセントにひどく複雑な心境をもたらした。別に哀れみだなんて綺麗なものを覚えはしないけれど、時折、この笑みに竦むような棘を感じることがあるのだ。同じように全てを諦めてしまったヴィンセントのそれとは異なって、彼のそれには明確な敵意が滲む。

消失を望むヴィンセントにとって、敵は「立場上の敵」ではあっても「憎むべきもの」ではなかった。自分の目的のために立ち塞がる存在は排除して然るべきだけれど、それは個人的な感情からの抹殺では決してない。――むしろ、だ。明確に敵意を持つ相手に対しては利益など度外視に苦しんでほしいと思ってしまう性質だし、ヴィンセント自身は世界そのものを恨んでいるわけではない。

――結局のところ、とにかく自分自身が疎ましくて仕方が無いだけだ。そこには何者への怒りも介在しない。

「全く。困ったご主人様だよね、君も……。いつ動くことになるかもしれないんだから、睡眠はとっておいた方がいいんじゃない?」
「……大丈夫。眠れなくなったのは、ちょっと思い出しただけだから……」
「……思い出した?」

呟かれたリーオの一言に、訝しげな顔をしてヴィンセントは問う。それに「うん」とだけ返して、リーオは先ほどより少しだけ優しく笑った。

「楽譜を一枚失くして、エリオットと大喧嘩になったことがあったんだ。……ずっと前に」

それがね、ちょうどこんな日。ヴィンセントを振り返りもせず窓の向こうを見つめたまま、リーオはぽつりと言葉を落とした。

いつかの日、サブリエ特有の強い風に煽られて、エリオットが長いこと持っていた楽譜の一ページを浚われていってしまったことがある。突き詰めればどちらが悪いと言う話でもなかったのだけれど、そこは気が立っていたエリオットのこと。リーオへ半ば言いがかりのように勢い任せの喧嘩を吹っ掛け、家中を巻き込む大騒動に発展したのだった。

結果的に家の人間が書斎の同じ楽譜を見つけたことで事なきを得たものの、その頃ちょうど窓際に位置していたピアノは、そのことがあったすぐ後で、エリオットによって強制的に移動させられることになったのだった。

「ふふ。怒るだろうね、それは……」

リーオの言葉にヴィンセントはふっと笑って、幼い頃のエリオットを思い出す。

エリオットは昔から音楽――とりわけピアノに一種の神聖さを見出していた。――彼の所持していた楽譜を了解を得ずに手に取った。たったそれだけのことでヴィンセントはエリオットに烈火のごとく非難されたりもしたし、それに対してヴィンセントが滅多にしない謝罪をしてみても、エリオットはなかなかそれを良しとはしなかった。

何事にも情熱を傾けるエリオットだったけれど、その中でも特別に重んじていたのがピアノの類だ。それにかかわる何かを失ったとするのなら、怒り狂う彼の表情は想像に難くない。

「昔から音楽には真摯だったからね、彼……」

嘲りを含まない調子でヴィンセントは言って、それきりリーオの出方を待ってみる。窓辺に少し近付いてみれば、映り込むのは感情の薄い彼の横顔。

「……僕と言い争うのだってほとんどそうだよ。特にあの家に居た頃なんて」

リーオが従者になってからの彼らの喧嘩は、どちらかと言えば互いを思いやるが故に引き起こされるものがほとんどだった。伝えるべき痛みを包み隠してしまったり、何でもないと強がってみたり。そんな時にエリオットは手痛くリーオを怒ったし、リーオもまた、他者のために傷つくエリオットを咎めた。

けれど、まだそんな信頼に至らないあの頃は、至極単純ないさかいがほとんどだった。やれ第三小節を弾き間違えただだの、やれテンポが合っていないだの、時にはほとんど言いがかりに近いようなものも多かったと記憶している。

それさえも優しい思い出として抱いてしまうほど、リーオにとってエリオットとの一瞬は尊いものだった。――過ぎ去ってしまえば全ては幸福。それを身をもって思い知らされた日々だった。

「……君は弾かないんだ?ピアノ」
「僕?……僕は興味無いな、ああいうのには……」

問われたヴィンセントは少し俯いて、軽い調子で否定を述べる。自分で音を奏でることなど考えたことは今まで無かった。追われるばかりの過去に音楽のことなど考えている余裕は存在しなかったし、百年前のあの頃ならば、ジャックの演奏を聴いているだけで十分だった。

ほんの些細なあの時間には、ギルと二人でよく演奏をせがんだっけ。ヴィンセントは思う。幸せだったあの頃は音に満ち溢れて、全てが壊れるだなんて思いもしなかったけれど。

「そうだなあ……。レイシーは……僕も好きだったよ」

ふ、と穏やかに微笑して、ヴィンセントは風に煽られた金髪をやや鬱陶しげに払ってみせる。「懐かしいな。……でも」と続けて、彼はリーオへ視線を向けた。

「……今の君には酷な話なんじゃない、ピアノだなんて」

ゆるりと笑って放たれたヴィンセントの言葉に、「……そうだね」とリーオの言葉が返る。グレンがリーオと同じ銘打ての演奏者であったことも、リーオが彼の作曲したものと全く同じ旋律を紡ぎ出したことも、今は全てが痛みに繋がる。――ましてや彼が誰より想ったエリオットもまた、音を愛した人間だから。

「でも、忘れることが許されると思う?……駄目だよ、それだけはね」

それは何より彼への裏切りになるから。そう語ったリーオはどこか追い詰められたふうをして、危うげな鋭さを隠し持っているようにヴィンセントには思えた。温厚そうに見て取れる外見とは裏腹の、他者の意志を受け入れない頑なさだけではなくて。

――いつか望んで全てを壊してしまうような。そんな危うさが潜んでいるのだ。彼には。

「ふふ……まあ、そうなのかもね……」

囚われていないと上手くいかないことだってあるしね。――今は深入りしてはまずい。そう考えたのか、手っ取り早くそう一言打ち切って、ヴィンセントはポケットから一本のリボンを取り出した。屋敷内だからとリボンを結ばぬまま、衣服の傍らに滑り込ませてそれきりだったのだ。

「……そう言えば君、一人で支度済ませたの?着替える時は呼んでって言ったじゃない」

思い出したようにリーオへ目をやったヴィンセントは、目の前の主人のことさら整った服装に溜め息をこぼした。通常、身の回りの世話を必要とするはずの立場の彼は、今もあらゆる全てを自分の身ひとつでこなしてしまう。

「いいよ、構わなくて。……慣れてるんだ、もう」

今更誰かに手伝われたって気になるだけだよ。自嘲気味にそう言ってから、リーオは妖しげにヴィンセントへ手のひらを差し出した。

「貸して?手伝ってあげる」

そうしてにこりと笑って放たれた言葉に、ヴィンセントは虚を突かれたように身動きが取れなくなった。――少しの驚きを交えながら、おずおずと握っていたリボンをリーオの方へ差し出してみる。

「君、自分でするのには慣れてなさそうだし。……今はエコーも居ないしね」
「本当……主人らしく振る舞う気あるのかな、君って」

呆れたように息をついたヴィンセントは、前かがみの姿勢をとってリーオの手つきをぼんやり見やる。日々繰り返されて来たのであろうそれはひどく洗練されているけれど、かえってどこか虚しさが滲む。

「……エリオットも僕よりは大きかったけど、君はかがんでもらわないととても無理だね」
「背だけは上手く伸びてくれたからね。エリオットには随分と文句を言われたけれど」

くすり、と笑ったヴィンセントの言葉に、リーオも思い当たる記憶を呼び起こす。

同じものを食べているのに、ああも育ちに違いが出るのは納得行かない。そう言ってむくれていたエリオットを適当にあしらっていたリーオだけれど、リーオ自身はそのままの彼が好きでもあった。身長差が出来ると何だか距離が生まれてしまうような気がしていたし、単純にこれ以上「チビ」と馬鹿にされるのには我慢ならなかった、と言うこともある。

ともかく、出逢ったときのエリオットこそがリーオにとって居心地の良い場所だったから、必要以上に変化を求めることを嫌った、のかもしれない。

「出来た。……どう?結構上手いでしょ」

最後にひとつ力を込めて、結び終えたリボンを前にリーオはふわふわ笑ってみせる。きっちりと整えられた藍色のリボンは日頃のそれと遜色なく、仕上がりはいかにも従者の仕事といったふうだ。

「流石だけどね。……これじゃあ僕がご主人様みたいじゃない」

立場に似合わぬ状況へ苦笑して、ヴィンセントは言った。

――刹那。嘲るようにリーオは笑う。彼の頬に手のひらを添えて、するりと冷たく滑らせる。そのまま鋭く闇色を細めるさまは威圧的で――どこか、畏怖すら与える出で立ちだった。

「君がご主人様?……思い上がらないで」
「……リーオ?」
「僕のご主人様はエリオットだけだよ。……今までも、これからもね」

ひやり、と切り裂かれるような突然のその言葉に、ヴィンセントは言いようのない危機感を覚える。この関係は所詮仮初め。必要とあらば全てを切り捨ててみせると、そう答えられているかのような明確な重圧。

――実力は圧倒的に勝っている。それなのに、とても逆らえないような恐怖が過ぎる。

「……分かったら二度とそんな言葉を口にしないで。……次は許さない」

吐き捨てるように、言い捨てるように、リーオはヴィンセントへ背を向ける。

「……失礼いたしました、我が主」

どこか戸惑ったように呟かれたその言葉はリーオを一度振り返らせて――いつかの日にもよく似た、一縷の風に煽られて、消えた。