Scarlet

「ひとつ、お尋ねしたいことがあるのですが」

リーオの掛けるソファに背を預け、ヴィンセントは冷ややかな語調でそう言った。

正直なところ、こんな感情を覚えること自体が不愉快だった。むやみやたらに主人を叱り付けたくなってしまうこの衝動は、誰かに傷ついてほしいと願う、あの殺伐としたものとは明らかに異なる。

誰かを案じるという行為はギルに向ければそれで十分。ヴィンセントは幼い頃からそう思って生きてきたし、実際エリオットと出会うまでは、これからもそうしていくのだと信じて疑いもしなかった。

――彼が一人めだ。そう。彼が僕の頑なさを少しだけ、浚っていったのだと思う。

ふう、と音にもならない息を吐いて、ヴィンセントは主人の言葉を背中に受ける。「……何?」それだけを呟かれて、それきりヴィンセントが答えずにいたものだから、再び波紋のような静寂が満ちる。

「主人に楯突く従者について、貴方はどうお考えですか?」
「……それはつまり、君が僕に、ってこと」
「いえ、必ずしもそうと言うわけでは。……全般的に、でしょうか」

そう、たとえば君がエリオットに接した全ての時間を肯定するか否か、とか。内心だけで自嘲気味に少し笑って、ヴィンセントはリーオの答えを待った。

――ああ、それにしてもなんて余計なことをしてくれる。まだ周りが敵だらけだったあの頃のように、自分を疎む世界の全てを憎んで憎んで、省みもしないままなら良かったのに。誰も彼もを恨んで、自分を悲劇の中心に据えたまま、怒りで滅ぼすことを決意出来ればどんなにか幸せだったか。

怒りや憎しみを僕から奪っていったのは、ジャックだ。翠色の瞳を思い返して、ヴィンセントは切なげに笑みをかたどる。彼が世界を疎むことから僕を遠ざけたまま消えてしまったせいで、僕は僕を否定するしかなくなった。

――だけれど実際、彼の想いは正しいのだと思う。「君の生きる世界を君が嫌って生きることは悲しいから」と、いつだったかジャックは言っていた。――ジャックの言うことはいつだって正しい。ギルのことを目いっぱいに愛してくれたし、僕もそんな彼が好きだった。唯一この瞳を認めてくれたかけがえのない彼を、否定することなんて考え付きもしなかった。もちろん、今この瞬間でさえ。

「……僕が否定出来ないこと、分かって言ってるんだろ」
「滅相も無い。……貴方には全てを拒絶する選択肢もあるはずでしょう」

お互い顔も見ないまま言い合えば、張り詰めた空気が心を振るう。たぶん、今はとても苦しそうな顔をしているんだろう。ヴィンセントは思って、どこかやり切れないふうに視線を流した。

これまでの全ての思い出ごと捨てて諦めることも出来ないくせに、感傷に囚われて、誰かのためにを建前に何もかもを壊そうとする。――そういう彼の不器用なところを見ていると、何故だかこうしてひどく苛つくことがある。

別に、頭ごなしに叱り付けたいわけではない。――認めたくはないが、要はただ「見ていられない」だけなのだろう。彼は僕とは違う。たったひとつのためにといくらでも犠牲を払って生きてきた僕は、十分裁かれるに値する人間だろう。ギルが救われるのなら今更それで構いはしないし、むしろそうあってほしいと変わらず思う。

けれど、彼はこれまで一切の罪を犯して来なかった。闇に踏み込んでしまう前に見せ付けられた痛みも、与えられた境遇も、誰より理不尽に過ぎることは僕だって理解している。――なんて、どうせ戻るにはもう遅すぎるけれど。

「……別にいいんじゃない。僕はこだわるつもりなんかないし、この形だって、君がそうしたいって言うからそうさせてるだけだよ」

縛り付けておくほど興味ないから、君のこと。言い放ったリーオに、ヴィンセントはくすりと笑う。

「……そう。なら、君にはひとつ言わせてもらうけれど」
「……何?」
「下手な憎しみは身を滅ぼすんじゃないかな。あまり無理をすると、かえって今後に響くしね……」
「それがどうしたって言うんだよ?目的は遂げてみせるさ。君の知ったことじゃないだろ」
「……曲りなりにも望んでくれる人がいたんなら、ちゃんと考えた方がいいと思うんだけどね……。まあ、僕は君にアヴィスの意思を手に入れて欲しいだけだから、その先君がどうなろうと知ったことじゃないんだけど」

それでも一応、ね。意味ありげに短く言って、ヴィンセントはなおも微笑む。やがてリーオが振り向かないことを見て取ると、やわらかなそれを少しだけ歪めて視線を落とした。

信頼を置いたものを失ったことで、全てを憎んで「壊れて」しまう。その気持ちが分からないわけではない。分からないどころか、分かりきった上でさらに鈍く壊れて行くことを望んだのが僕だ。その行為自体を否定したりはしないし、かといって可哀想だとも思わない。

――ただ、それでも酷く苛付く。別に、自己防衛から来る浅ましさに辟易しているわけでもない。予想よりも遥かに闇が深いことを憐れんでいるわけでもない。彼の何に怒りを覚えるでもなく、ただ、腹立たしいのだ。その理由が何故なのかを理解することが出来る分、それに輪を掛けて苛立ちは募る。

形容しがたいそれはおそらく、彼自身に向けられているものではない。おそらく傍に居るほどまざまざと見せ付けられる、彼を取り巻く理不尽そのものに向けられているのだろう。自身ではどうしようもない状況を甘受して、壊れて行く薄弱な彼にも怒りを覚えないわけではないけれど。

――ああ、あの頃を思い出す。ヴィンセントは思って、気取られないように小さく息を吐いた。無力感はやがて諦めや復讐心に変わる。何よりそれは、僕自身が今まで引きずってきたことだから。

「……少し、昔話をしようかな」

聞き流してくれても構わないよ。黙り込んでしまった主人に告げて、ヴィンセントは記憶の混濁する路地裏と、ひどく整った邸宅を思い返す。

後者を思い返すそのたびに、いつも愛おしさと、苦しさと、どうしようもない不安感に襲われた。傲慢な不安感だとは自覚している。自らの手であの小さな世界の全てを終わらせておいて、この上罪を恐れることなど無いはずなのに。

「……僕がギルをどうしても助けてあげたいと思うのはね、彼が優しすぎるからなんだ」

語り始めたヴィンセントに、リーオは黙り込んだままぼんやり耳を傾ける。

「幼い頃、僕が禍罪の子だと分かったせいで、関係の無いギルまで一緒に放り出されてしまってね。ギルは途中、何度も僕を捨てて行こうとしたよ。けど、出来なかったんだろうね……。何度も後姿を見送ったと思ったら、そのうち申し訳なさそうな顔で僕のところに戻って来るんだ」

そのまま捨て置いてくれれば良かったのに。自嘲気味にヴィンセントは言って、冷え切った紅茶のカップに自らの姿を映した。

「子供二人が生活して行くためには、貴賎なんて気にしてられる状況じゃなかったからね……。ギルは表に出られない僕の代わりに、本当に何でもやってくれてたよ。……盗んで、媚びて、……本当、笑えるくらいに何でもね……」

悪趣味な貴族の子飼いになって食い扶持を得たり、禍罪の子であることを利用し、ヴィンセントが売られたふりをして、その後二人で逃亡を謀ったり。生きるために出来ることにはひとしきり手を出したのではないかと思えるほどに、それは長い長い悲劇だった。

幸い彼らは共に見映えがする容姿であったこともあり、身売りに関しての障壁は無かった。立場を利用して金銭を得ることにも、良心が咎めることなど既に無かった。

取引を終えてすぐ実行されるはずだった逃亡計画が事前に露呈し、殺されかけたことももちろんあった。――初めて人を殺したのは、二人目の雇い主に毒を盛られた日のことだった。

「君も分かると思うけど、一応ご主人様の命令って絶対なんだよね。……ある日、逃亡しようとしているのがバレた時に毒入りのジュースを差し出されちゃってさ。……それもギルにだけ、ね。たぶん、僕のことは何処かに売り払うつもりだったんじゃないかな……?ああ、本当、嫌になるよね、そういうの……。……兄さんを傷つけるような人間、殺されたって、文句は言えないと思うんだ……」

含みたっぷりに口元だけでにこりと笑って、ヴィンセントは冷徹な視線を窓の外へ向ける。その時はギルを狙った貴族が憎くて、ほとんど何の躊躇いもなく狂気に身を委ねた記憶がある。

突き立てたナイフが胸を貫く感触がしても、目の前が血に紅く染まってさえも、罪悪感など欠片だって起こりはしなかった。全ては今、僕をこの状況に至らせた世界の理のせいでしかない。そんな底知れない憎悪が、些細な背徳感さえ奪い去って行ったからだ。

――けれど、分かっている。本当に憎かったのは、おそらくあの卑しい人間ですらなくて。

「……でもね、あの生活の間中、僕が誰よりも憎かったのは」

言いかけて、ヴィンセントはほんの一瞬言葉を切った。ああ、本当に浅ましい。ギルが死の危険に遭うことも、疎ましい世界に身を投げなければならなかった事実も、全てこの身が無ければ起こりえなかったことなのに。

世界の所為にするより前に、僕が僕を消してしまえたならそれで全てが終わっていたはずだったのに。独善的な生存願望が邪魔をして、たった一言を言えなかった所為で。あるいは、自ら全てを終わらせる勇気すら呼び起こせずに過ごしたばかりに。

「……僕が誰よりも憎かったのは、僕自身。だから僕は僕を消してやりたいんだ。そのためにやって来たことを後悔するつもりもないしね……」

僕は、僕がギルに言えなかった一言を清算してしまいたいんだ。そう切なげに少し笑って、ヴィンセントはくるりとリーオに向き直る。

「僕はもうここでいいよ」と。そう言えなかったこと、それ自体が僕の罪。僕は突然降りかかった罪に嘆く彼のように、何も知らずに居たわけじゃない。僕は僕の存在がギルに不幸をもたらすことを知っていた。知っていたのに、自己愛が勝って言えなかった。それは彼と僕との、小さいようで、あまりにも大きな違いだ。

「僕が僕を断罪するのは、僕を殺してとギルにお願いすることも、自分で自分を殺すことも、どちらも躊躇ってしまった罪を清算したいだけ。……だけど、君はそうじゃないじゃない。知っていて罪を被るのと、そうでないのとは、随分違うと思うけどね……」

それでも君が自分を罰したいなら、僕は別に止めはしないけど。笑みとも悲哀とも付かない微笑を浮かべて、ヴィンセントは内心で手酷く自嘲する。輪廻から来る業に苦しめられている、その彼さえも利用しようとしている立場に立って、いったい僕はどの口でいたわりを投げ掛けていると言うのだろう。

利用するのなら利用するだけしてしまって、余計な感情など持たなければ良いものを。ただ彼が自分の好んだ人間の死に壊れかけ、自分と同じように生まれ持った罪に苛まれているだけで、無碍に扱うことすら出来なくなってしまう。

――以前ならこんなこと、無かった。そもそも大切なもの自体、たったひとつしかありはしなかったのに。

「……本当、とんでもないよね、エリオットは……」

僕が消える為に不必要な感情まで、僕に残して死んで行くなんて。ヴィンセントが心の中で恨み言を吐き出せば、傍らで俯いたリーオが「君に何が分かるって言うの」と一言。おそらく全ての言葉に対して返答されているのであろうそれは、辛辣さと苦しげな嘆きに満ちている。

「……ごめんね?」ヴィンセントが言えば、「……別に」とリーオの無感情な一言が返される。それきり黙りこんでしまった部屋には静寂が満ちて、言いようのない感傷が無音の空間にひやりと落ちた。