薄命なプラナス-1-

「うわー、すごいね。別世界って感じ」

あたり一面に彩られた花びらを目で追って、リーオが感嘆の声を上げた。

「今は時期だからな。他所からの見物客も多いはずだ」

首都レベイユにこの時期広がる幻想的な風景は、リーオにひどく不思議な感覚をもたらした。何しろリーオにとって「幻想的な風景」とはアヴィスへ続くと言われるあの道のことを指すものだったから、そこに危険が付随するのは当然のことだったのだ。

あの街――サブリエはいつだって灰色の空に覆われていたのに、あの空間だけがいつもまばゆい光を持っている。あの場所で生きていくには、常に偽りの美しさに対する危機感を備えていなくてはいけなかった。けれど、この街はまるで違う。色味の中に混じった色味、とでも言うのだろうか。美しいと思ったものを額面通りに受け取ることが、この街では当たり前のように許されている。

「何か変なの。一年前はこうしてエリオットと街中歩いてるなんて想像してなかったんだけどな」
「それはオレも同じだ。従者ってやつは、もっと堅苦しい奴がなるものだと思っていたからな」
「……自分で選んでおいて随分な言い方するよね、君も」

まぁ、いいんだけど。そう呟いて、リーオはいつもより少しだけ機嫌良さそうに笑う。皮肉めいたそれが本気ではないことは、今更ちゃんと分かっている。それにたぶん、リーオと同じでエリオット自身も言葉のとおり、本当に不思議なのだろうから。

「……あれ、アーモンドだ。やっぱり桜よりずっと大きいな、花びら」

そう言って通りがかった木を見やるリーオの横顔を、何とはなしにエリオットは見つめる。そもそも自分がリーオに声を掛け続けたこと自体、エリオットにとっては疑問だった。最初の印象など最悪もいいところだったのに、それでも彼はリーオに構うことを止めなかったのだ。それが何故なのかは分からないが、そう。――とても強く惹かれたのをよく覚えている。

「桜じゃないのか、これは」

違いがよく分からん。そう言って、エリオットは木々を見上げた。

「桜はこれよりもう少し花が小ぶりだから。普通はこっちの方が少し早く咲くんだけど、ここでは違うみたいだね。何でもかんでも一緒に咲いてるよ。……へぇー、よく見るとすごいや。興味深いなぁ」
「……オレはもう付き合わねぇぞ。観察するなら一人で来て観察しろよ」

盛大に吐息して、エリオットは一言告げる。一旦観察体制に入ると、リーオは周りのこと何一つに対して気を遣わなくなるのだ。もとより遠慮の無いエリオットへはもちろん、それはフィアナの家でも同じだった。彼は自分が持つ空間に割り込んで来る子供たちには容赦なく怒ってみせたし、そんな時は例外なく、そこからしばらく機嫌が戻らないのだ。

「……分かってるよ。君、そういうとこには堪え性無いもんね。この間だってほんの1時間でバテバテだったじゃない」
「お前な、付き合わされる方の身にもなってみろ。興味の無いものに黙って付き添える人間がどれだけいると思うんだよ」

名前があるかも無いかも判然としないような花々から、著名に過ぎる生物まで。リーオの観察対象は広域に渡っているけれど、大抵の場合、どれもエリオットの興味とは大きくずれていた。

唯一、興味を同じくしたのはたしか――そう、蝶だ。青と黒に染められた蝶。優雅に飛び回る様があまりに美しくて、らしくないなと思いながら、時を忘れて追い掛けた。まるで、何かに惹かれるかのように二人。あれを見掛けたのはどこだっただろうか。たどり着いた場所も、ひどく幻想的な風景だった。

「……サブリエか、あれは?」
「うん?」
「前に、どこかで蝶を見かけたことがあっただろう。青と黒の奴だ」
「あぁ、エリオットがやたら追いかけていったやつだね。うん、そう。……サブリエだよ、あれは」

偽りに満ちた世界の中の出来事。だから、あれが本物かどうかは分からない。

あの空間に存在するものは、いつだって迷い子を魅了するものごとで溢れていた。それが何のためにそう作られているのか――はたまた作られているわけではなく、ただの「現象」なのかは知らないけれど、強く心を引きずった。何故か先を行く「それ」を追わなくてはいけないような気がするのだ。そして、多くは迷ったっきり戻らなくなる。

そういえば、あの時はどうして出られたのだったっけ。よく覚えていないけれど、何の苦労も無く元の場所に戻れていたような気がする。今考えると、とても不思議なことだけれど。

「あそこは、あれだから行方不明者が出るんだよね。子供たちなんていくら言い聞かせても興味本位で入っていくんだから、封鎖でも出来ればいいんだろうけど」

まさか、そんなわけにもいかないし。言って、リーオはなおも平穏なままの風景を眺める。フィアナの家には年に一度あるかないか、子供があの道に迷い込んだという報せが入る。好奇心の強い人間ほど呪縛に囚われやすいとよく聞かされてきたが、リーオも未だに「迷い込む」という言葉の意味を正確に理解できているわけではなかった。

どうも、空間自体が奇妙に捻じ曲がっているような気がするのだ。それでなくてもあの道は昔から、アヴィスに通じる道だなどと噂されてもいるのだし。別に、本気でそんなものがあると信じているわけではなかったけれど、不可解な現象すべてを否定して生きたいほど理屈っぽいつもりもない。

「……エリオットは、あそこで何を見たの?」
「――何を?」
「僕が見たのは昔の記憶。……だったと思う。分からない。あれが夢だったのか、それとも現実だったのかは、ちょっと何とも言えないんだけど」

そう、あの時のことを思い返せばいつも少しだけ、エリオットと離れていた時間があることに気付くのだ。そして、あの蝶はたしかに目の前で姿を変えた。独りで向かい合わなければいけないのは、ひどく凄惨な記憶だった。――だったと思う。

あの場所を出た段階で、すでに記憶はおぼろげになっていた。残ったのは、ただ苦しかったという感情と、途切れ途切れに泣き叫ぶ幼い自分の姿と、何かが堕ちていったような記憶の断片。何が、どこに堕ちていったのかは分からない。どうして堰が切れるように泣き叫んでいたのかさえ、今となってはたしかではなかった。でも、それでも苦しいと思った。――狂おしいほどに。

伝えれば、深刻そうな表情でエリオットは息をついた。――どう返答すべきかに逡巡する。

「あの場所で間違いないのか?ずっと奥の……何と言えばいいんだ」
「んー、僕が着いたのは庭みたいなところだったな。その時は何の気配も無かったけど、過去に誰かが住んでいたような感じだったっけ」

こうして口にすると、記憶は途端に鮮明に蘇る。建てられていたのは、中世風というか、おとぎ話に出て来そうな立派な洋館。考えれば考えるほど、不思議だ。どうして今まで詳しいことを何も思い出さなかったのだろう。

「そうか。……なら、オレが着いたのはまだ先だ」

彼の場合は、着いたというより飛ばされた。気が付いたら「そこ」に居たのだ。見たのはあの夢と同じ光景。それも、ずっと生々しい感覚を伴って。

「まだ先?行き止まりじゃなかったんだ、あそこ」

驚いたように言ったリーオに浅く頷いて、エリオットは街の外れで立ち止まった。人気の少ない空間は、改めて声を発するのに少しの緊張を生じさせる。

「……気付いたときにはオレはもうあの場所に居た。正直、お前と同じで夢か現実かもよく分からねぇ。あの時は見ているというか、現実に目の前で起こっていることを記憶している自覚はあったが、思い出したのはたった今だ。――見たのは、あの夢と同じだ。いつも話している例の」
「あの夢の?何であんなところで……」
「分からない。だが、あの時はオレが中心に立っているわけではなかったと思う。別の意識を外から見ているような……。見える景色は……それでも同じだった。感覚も変わらない」

何かを切り伏せる感覚だけが鋭く残って、自分ではない自分が血に濡れた剣先をぴしゃりと振るう。

それはただ、何らかの力によって自らの恐怖を突き付けられただけなのかもしれない。不思議な場所だから、そういうこともあるのかもしれないと、思う。けれど、それだけでは腑に落ちないことだってある。おそらく、いくら考えても答えは出ないのだろうけれど。

「何で忘れてたんだろ。……こんな大事なこと」

とは言え、何が大事なのかさえ分からない。

迷い込んだ道の先で理解を超えた現象に遭遇した。そういう話は耳にするだけならままあることだし、実際に出会ってみれば多少驚きはするが、所詮はその程度ではないのだろうか。ましてやあそこはサブリエだ。不可解な出来事なんていくらでも起こりうる。

こうして無事に帰ってきているのだし、あれ以来何事もなく日々を過ごしている以上、それで片付けてしまうのが一番良いことだって分かるのだ。なのに、どうしてか気に掛かって仕方がない。

「……けど、あの時のことは、本当に何も覚えてないんだね」

ほとんど声にならない声で、リーオは呟く。絶望したくなるほどの恐怖と悲しみ。あれをエリオットが感じなくて良かった。そう思う。心から。

「何か言ったか?」
「……ううん?頭打って家に着くまでずっと気絶してただなんて、笑っちゃうよなぁと思っただけ」
「お前、その話はもうするなと言ったろ……」

一切合切を適当にはぐらかして、リーオはエリオットの意識を逸らす。絶望に満ちた一日は、蝶を見つけたあの日よりもずっと前だ。

今、彼らは再びそこへ向かおうとしている。いや、正確にはフィアナの家に向かおうとしているだけで、あの場所に足を運ぼうと思っているわけではないけれど。

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