薄命なプラナス-8-

カタン、と音を立てたカップにちらりと視線をやって、ギルバートは再び手元の報告書に注意を向けた。音の発生源のテーブルには少量の紅茶がこぼれて広がり、それが徐々に床へと滴っている。ふぅ、と溜め息をついて、テーブルに掛けるシャロンは手早く後始末を終わらせたのち、彼を見る。

「……次の行き先はどちらなのですか?」
「しばらくはパンドラに留まるだろうな。ブレイクの奴が何も言ってこない限りは当分暇だろう」
「そうですか。……ブレイクはどこへ行ったのでしょう。また勝手に」

言ったっきり、シャロンは寂しげに窓向こうへ視線をやった。晴れ渡るレベイユは色とりどりの木々に満ちて、ひどく美しい風景を作り出している。

「……行き先は分からないが、どうせまたすぐに帰ってくるだろう」

そうでしょうか。ギルバートの言葉にそう言って、呆れ混じりの憂いを秘めてシャロンはシュガーポッドを手で触れた。常に満たされている角砂糖の山は、彼女ではなくブレイクのためにあつらえられたものだ。

こうしてブレイクが傍を離れると、シャロンはいつも言い知れない不安に駆られた。彼がチェインを使うたび、彼がひとつずつ壊れていくような気がして怖かった。自分の目の届かないところでいつか親愛なる人が倒れ、二度と帰らないのではないだろうかと言う不安は、そう簡単に拭い去れる物ではないのだ。

「あなたはやはりお強いですわね。私、尊敬しますわ」
「……何の話だ?」
「……いいえ?こちらの話です」

にこりと笑って、シャロンは不審そうなギルバートを受け流す。奇妙な縁から共に行動するようになった彼、ギルバート=ナイトレイは、元はベザリウス家の使用人だった。シャロンは実際に彼が任務をこなしている場面を知らないが、話だけなら、とても表に出せないほど血にまみれた仕事まで担っているということは知っている。

別に、そのことでギルバートを蔑視したりすることはない。良家の令嬢といえど、彼女もまた戦う人間だし、そうしなければこの世界を生き抜けないことも分かっているつもりだ。シャロンが単純に賞賛を覚えるのは、生きているかも分からない――生きていたとして、救えるかも分からない人間を待ち続けられる彼の精神力だった。

そうまでして一人の人間に捧げられる忠誠心は並大抵ではない。かたくなに再び仕えられるその日を信じ続けるその姿は、シャロンには決して無いものだった。こうして少し傍を離れるだけでこれほどの不安を覚える自分はあまりにも子供じみていると分かっているのに、その感情をどうしても捨て去ることが出来ない。信頼していないわけではないのに、いざ別れると途端に心が霞んでしまう。

「……オズ様は」
「ん?」
「ギルバートさんからご覧になって、どのような方なのですか?私はあの成人の儀で一度会ったきりですから、あの方の性格をよくは存じ上げませんので」

逸らしついでに、ふと浮かんだ疑問をシャロンは口にする。そういえば、こうしてこれを直接的に聞ける機会は今まで一度として無かったように思う。純粋にこれから救おうとするオズ=ベザリウスと言う少年がどのような人となりなのかにも興味があったけれど、それよりも、ギルバート自身が彼をどう判断しているのかが長いこと気になっていた。

「……そうだな。周りの声を聞きすぎる奴だ。いつも自分だけが傷ついていればいいと思うような、少し自己犠牲的なところがある」
「繊細な方ですのね?」
「ああ。しかも、どれだけ傷ついていても本人は傷ついていないと思っている。……鈍感な奴だ」

微笑して、ギルバートは言葉を切った。何事にも敏感すぎるゆえに、自分の痛みにひたすら鈍感な主人。それゆえ昔からギルバートの心中は穏やかではなかったが、それに対して存在理由を求めている自分も、またしっかりと認識出来ていた。

自分が面倒を見なければ、主人はいつか心砕けて倒れてしまうかもしれない。そう思うと放っておくことは出来なかったし、オズに仕え続けることで、自分が必要とされているのだと思うことが出来た。彼自身は自分が何故それほどまでに自らに存在理由を求めているのか理解していなかったけれど、それでも、何か理由が無ければ生きられないような気が、いつだって漠然としていた。

「……そうですか」

それでは、絶対にお救いしなければなりませんね。言って、シャロンはあくる日のことを思い出す。雪の降りしきるあの日、シャロンがレイムと見つけた彼は、うわ言のように誰かの名前を呼んでいた。あまりにも弱々しくてその名前を聞き取ることは出来なかったけれど、それがひどく後悔に満ちていたことを覚えている。

あれから二度三度、勇気を振り絞って尋ねてみたことがあったけれど、ブレイクはそのたびに、詳しいことをはぐらかして答えない。まだいくらでも話してもらえていないことがあるのだと知っているのに、それを聞き出す術が無いことは、思うたびにひどくもどかしい。

「――すみません。シャロンお嬢様はご在室でしょうか?」
「……あら?」

思い出を重ねているうち、ふいにノック音が響く。ドア向こうに響いた声は、シャロンによく聞き覚えがあった。

「……レイムさん?どうぞ、お入りになってください」

声ののちに開かれた向こうには、やはりレイムの姿があった。ここはパンドラの一室だから、おそらく彼もどこかで働いていたのだろう。失礼します、と言って部屋に踏み入ったレイムは、ギルバートの姿を認めてほっとしたように息をつく。シャロンに礼儀正しく一礼してから、レイムはギルバートへ向き直った。

「ギルバート様。お嬢様と一緒におられるかと思って探していました。……少しよろしいですか?」
「ああ。……外へ出たほうがいいか?」
「ええ、お嬢様には申し訳ありませんが、そうしていただけると助かります」

遠慮がちに言って、レイムは居心地悪そうにシャロンを見やった。それに動じる風もなく、当のシャロンは優しくゆったりとした笑みをたたえる。

「……構いませんわ。私はここでお茶を続けていますから、どうぞ、お行きになってくださいな」
「そうか。……シャロン、悪い。少し空ける」

笑顔で答えるシャロンに頷いて、二人は一旦外へ出た。あえて彼女を外すと言うことは、それなりに聞かれてはまずい用件なのだろう。少し離れた無人の休憩室へと落ち着いて、姿勢を正してレイムは言った。

「実は先ほどナイトレイ家の使用人がパンドラを訪ねて来たのです。フィアナの家の子供が一名行方不明になった、とギルバート様に伝えるようにと……。応対出来るパンドラの人間がちょうど私しかいなかったものですから、話を受けてそのままこちらまで参ったのです」
「フィアナの家……サブリエのか?何だって俺にそんなことを……そりゃあそう聞けば気にはなるが、元々あそこは俺には関わりの無い土地だぞ。身内どころか、これと言った知り合いも居ない」

困惑したようにギルバートは疑問をこぼす。それに向かい合うレイムも、心得たとばかりに頷いた。

「私もそうだろうとは思ったのですが……。力至らないことに、それ以上は極秘事項だと言って何ひとつ知らせてはいただけなかったのです。……しかし、この件はナイトレイ公爵の名義で伝聞されておりますので、公爵がギルバート様にも伝える必要があるとご判断なされたということなのでしょう」
「……義父上が?……一体何なんだ?」

少しの苛立ちを含めてギルバートはごちた。何しろ本当に心当たりがないのだ。フィアナの家には幼少の頃から足を踏み入れることが無かったせいで、ただのひとりも知り合いは居ない。それどころか、彼はフィアナの家の正確な場所だって知りはしないのに。

「もしお時間があるのでしたら、一度戻られてはいかがでしょう。どうにもあの使用人の様子が尋常ではありませんでしたので、火急の事態という可能性もありますし……」
「だが、それではシャロンが此処へ一人になる。ブレイクの奴もまだ戻っていないからな」

いくらパンドラ本部とは言え、仮にも公爵家の令嬢を一人きりにしておくわけにはいかない。それに、昨今は随分アヴィスが活気付いてきているようだから、いつ即座の対応を求められる場面が来るかも知れないのだ。もしもチェインに襲われたその時にシャロンが一人では、おそらく彼女は身動きを取ることが出来ないだろう。

「ふぅ……あいつは、またお嬢様に何も言わずに出掛けているのか」

溜め息をついて、レイムは呟く。薄々分かってはいたことだけれど、と内心だけで言い添えた。

「何か言ったか?」
「ああ、いえ。――私が代わりに付いていますから、お嬢様のことは気にせずギルバート様は屋敷へお戻りください。ザークシーズが戻ったらよく言っておきますので」
「……良いのか?お前も仕事が残っているんだろう」
「ええ。お気に病まずとも、書類整理はどこでやっても同じですから」

判を押すだけですからね、と苦笑するレイムに、軽く礼を言ってギルバートはパンドラ本部をあとにした。日頃、ナイトレイ公爵がギルバートへ連絡を寄越すことはほとんど無かった。家を出て最初のうちはそれなりに足取りを催促されていたけれど、最近ではおそらく諦められているのだろう。

それゆえ、今回の件はギルバートにとって内容が重いのか、軽いのかさえ分からなかった。惜しむらくは此処へやって来たと言う使用人の無能さだろうか。そいつはレイムがフィアナの家のことを知らない人間だったら一体どうするつもりだったのだろう。

そこまでするならいっそ、もう少し詳しいことを喋って行ってくれれば良かったのだ。そうすれば、あの屋敷へだって足を運ばずに済んだかもしれないというのに。

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