薄命なプラナス-7-

「――!」

鈍く不協和音を奏でたピアノが脳裏に響く。ひどく不安定なそれは何故だか思い出したくない出来事を思い出させてしまいそうで、エリオットは無意識のままに表情を歪めた。降りしきる雨は衣服を濡らしていないから、ここは先ほどとは別の記憶の世界なのだろう。暗くかげった藍色は、間違いなく先ほどより色濃さを増している。

――完全に方向感覚を奪われてしまっている。いくら正しい方、明るい方へたどり着きたいと焦っても、ひたすらに暗いほうへしか進んでくれない。

「……っ、何だってんだ、このピアノは……」

鳴り止まずにひどく歪んでいるそれは、いったい誰の心なのだろう。とても歪んで、それなのに美しい、正負の混じった不可思議な音だ。ピアノの音色には弾いている人間の心が少なからず映る。それはいくら直接的ではないにしても、避けることの不可能な実際だった。

もともとピアノは「表現するための道具」だから、表現することを捨て去った音楽は無関心の表れと言うことになる。心を閉ざせば音はとことん無表情になるし、開けっぴろげにするなら明るくいざなうような音にもなる。いずれにせよ弾いていれば、本人が意図せずともありのままの音を奏でる。――そういうものなのだ。

(しかし、滅茶苦茶な割には――)

――とても心惹かれる音だ。そして懐かしい。

聴いたことが無いのにひどく懐かしさを覚える、そんな曲だと思えた。調律の狂っていない鍵盤で奏でたこの曲は、きっととても澄みきった音をしているのだろう。

――もしもここにあいつがいたら、この曲をどんな風に映すだろうか。

「……リーオ」

考えつつここに居るはずのないリーオの名を呼んで、何となく安心を得た気分になる。その名前がエリオットにとって大切なものになったのはいつからだったのだろう。あるいは主人と従者の関係を結んだあの日かもしれなかったし、あるいは、初めて出会ったあの日から、だったのかもしれない。

思いながら、音のする方へとエリオットは向かう。音は次第に大きく荒くなっていったけれど、少しして、ふいに演奏がぴたりと止んだ。

「――その決断は君にとって何を意味する?こんなことをしても、何にだってなりはしないだろう」
「レイシー……彼女が失われたのは、この世界に混沌が存在するからだ」

音の途切れた方へそのまま真っ直ぐ歩いて行くと、エリオットはこの日二つ目の小競り合いに出会う。今回はどちらの姿も視認は出来ず、届いたのは二人分の声のみだった。

「……混沌が無ければ彼女が捧げられる必要も無かったものを」

少し低いトーンの男が発した単語――女性名らしいその「レイシー」と言う名がやたらと強く響いて、エリオットの中に不確かな違和感となって形を残す。それはどうしてだかとても懐かしい気分にさせられる、先ほどの曲と同じような感覚だった。

「……だから憎むというのか?この世界を」

訝しげに、柔らかな声音の青年は問うた。清廉な印象のそれは、曇天にさえ力強く抜ける。

「……そうだと言ったら?」
「歓迎は出来ない。……少なくとも、私は」

切なさを含んだその声は、青年が悲しげに微笑んでいるようにエリオットには感じられた。エリオットがもう少し近付いてみれば、声だけのそれらが次第に明確なシルエットへと変わる。依然として二人がどのような姿をしているかは定かではなかったけれど、ピアノの前に座っているのは短髪の男のようだ、ということだけは辛うじて判断出来た。

もう片方の青年らしき影は、長髪に三つ編みがなされている。よく聞いてみれば、どこかで聞いた覚えのある声だ。――そう、たしか先ほども姿が見えなかったあの、ジャックという青年の声。

「……それは、君を慕っていた者たちにまで罪を強いて……そうまでして遂げなければいけないことなのかい?」
「ああ。これはもはや課せられた使命にも値するだろうな」
「……そうか。もしどうしても止めると言ったら、……君は私と戦うのだろうね」

切なげに、けれどどこか諦観の含まれた語調でジャックは言った。――どこからともなくオルゴールの澄んだ音が聴こえる。狂った音で奏でられていた、とても美しいあの音色――三つ編みのシルエットが掲げた懐中時計から鳴り響く、歪みない悠久のそれは――ひどく、優しい哀しみに満ちている。

「……どうしても立ちはだかると言うのなら、それも止むを得ないだろう」
「やはり本気なんだね。――悲しいよ、グレン」

君と戦いたいと願ったことなど、私には一度もないのだけれど。言って、二つ分の影はあっさりと絶える。絶えて、背後には再び新たな二つの姿。目まぐるしく現れては消える風景にも、これだけ触れれば随分慣れた。少し冷えた空気にどことない不安感を煽られるのは、それでも跳ね除けようのない事実だったけれど。

「――エリオットには関係ないよ。いいから離して」

そうして響いた声に新しく現れた人影を振り返れば、見慣れすぎた人物がそこに居た。まだあの家に居た頃のリーオと――片方はエリオット自身だ。

「……。これは……アレか」

よりにもよって、何とも苦い記憶を引っ張り出してくるものだ。そう思って、エリオットは目に見えて深い溜め息をついた。これはたぶん、リーオが家の子供に手を上げようとしたあの日の記憶だ。あの時はなんとか取り押さえて大事には至らなかったものの、最終的にはリーオの怒りがエリオットに飛び火して、これまででも一、二を争うほどの口論になったのだ。

「関係なくはないだろ。そのチビに手出して何になる!」
「うるさいな!こっちが十分注意して聞かないんだからどうなってもいいってことだろ!人の言うことも聞かずに好き放題しようとする奴が悪いに決まってる。自業自得だよ。……それとも何?エリオットは彼の味方なんだ?」
「味方とか味方じゃないとかそういう問題じゃないだろう!そんな重いもん振り回したら下手すりゃ死んじまうだろうが!」

リーオの手にしていたそれはどう控えめに見積もっても殺傷力を兼ね備えた鈍器だった。生けられたばかりの陶器の花瓶を軽々と抱えて、振り下ろそうとした残骸が床の方々に転がっている。

そう、この時に飾られていた心ばかりの桜の花は無残に散ってしまったのだった。あの時は気が付かなかったけれど、別の花瓶に生けられた、紅い花だけがしがみつくように部屋の片隅に佇んでいる。

「……それもそうかもね。そこは謝ってもいいよ。さすがにやり過ぎたかもしれないから」

殺されかけて怯える子供に、リーオはさらりと謝罪を述べる。ただし、これはあくまで危険を負わせかねなかった行為への謝罪だ。根本的なところは何一つ、許してはいない。

「だけどアレを許したわけじゃない。……いくら家の子だろうと、今度やったら僕は許さない」
「あの、ぼく、その……」
「おい、リーオ……何もそこまで言わなくても―ー」
「そこまで?彼はあれだけ興味津々に人の嫌がることをしておいてお咎めなし、僕には大人しく黙ってろって言うの?」
「別にそう言ってるんじゃねぇよ。相手をもう少し考えろと――」
「ねえ、エリオット。君も随分くどいから言わせてもらうけど」
「――なんだ?」

冷え冷えとした口調でリーオはエリオットに向き直る。嘲るように笑って、彼は続けた。

「……君ってさ、本当お節介だよね。関係ないことに首突っ込んで何となく解決しようとして、横から入ってきては正義だの悪だのすぐに二つに分けたがるんだ」
「それの何が悪い。良い奴は良い、悪い奴は悪い。それだけのことだろうが」
「それだけ?――そんなわけないじゃない。善人が必ず善人だとでも思ってるの?悪人は悪人でしかないって君は言うけどさ。単純なことばかり信じてるといつか痛い目に遭うよ」
「……何が言いたい?」
「人間なんてその時によって善にも悪にも変わるってこと。それは視る側の人間によってすら違うんだ。……当然君だってそうだよ」

そのくらい、取り返しが付かなくなる前に自分で気付けば? 言い捨てるように言って、リーオは挑発気味にエリオットを見据える。先ほどまで仲裁に入っていた施設の人間は、今ではすっかり蚊帳の外といった様子だ。

「ちょっと待て、何だってオレの話になってるんだよ。今は関係ないだろ?」
「そう?勝手に割り込んで来たのはエリオットだよ。巻き添えになりたくないなら黙って見ていれば良かったじゃない」

はたから展開される映像を見流して、エリオットは思わず頭を抱えそうになる。全く話が噛み合っていない上、どちらも完全に論点のずれた言い争いをしている。たしか、記憶によればこの後などもっと悲惨だ。

「――そう言ったってな、オレが止めなかったらどうなったか分かったもんじゃないだろうが!」
「だからその正義ぶった態度が気に入らないって言ってるんだよ!分かんないの!?」
「オレだってお前の何でも分かったような態度は気にいらねぇ!自分だけ善人ぶってんじゃねぇよ!」
「別に僕は自分が善人だなんて思ってないけど?君、自分がそういうつもりだから他人のこともそう見えるんじゃないの?」
「んだと……!」
「あの、リーオも、エリオットも、けんかしないで……?」
「お前は黙ってろ!」

勢いのままエリオットの声が響いて、恐る恐る声を掛けた子供は泣き出すことさえ忘れてぴたりと固まる。それがきっかけになったのかは知らないが、リーオはその時点で少しだけ落ち着いたようだった。

「……あのさぁ、イライラしてるからって家の子に向かって怒鳴らないでくれるかな。無駄にでかい声で子供萎縮させて楽しい?」
「元はといえばお前が原因だろうが。その大事な家の子に向かって本気でキレかけたのはどこのどいつだよ」
「否定はしないよ。……だからって君がその子に怒鳴っていい理由にはならないと思うけどね」
「――っ、もういい、好きにしろ!」

一息に言って、記憶の中のエリオットはフィアナの家をあとにする。いい加減支離滅裂な会話に呆れ返って、現実のエリオットはもう何度目かも分からない溜め息をついた。

しかしどう考えても、この時のリーオは横暴だ。今でこそリーオが怒りを爆発させれば周りが見えなくなると知っているから対処のしようもあるけれど、たしかにあの頃は何度も諌めかたを間違えた。――いや、お互い周りが見えずに口論になることなんて、むしろ今でもしょっちゅうだけれど。

「あの、リーオ……あのね、ごめんね。エリオットとリーオけんかしちゃったの、ぼくのせいだよね……」

エリオットが家を飛び出してから少しして、呆然とやり取りを見ていた子供が口を開いた。さて、当時のエリオットがここで退席したということは、当然ながらこれ以降は彼の知らない記憶ということになる。覗き見をするようで今ひとつ気乗りはしなかったけれど、好奇心を振り払うことも出来ずに彼はそのまま意識を向けた。

「……いいや、君のせいじゃないよ。ごめんね、どこもぶつけたりしなかった?」
「あ、んーん……ぼくは、だいじょうぶ……」

リーオが問えば、まだ少しだけ怯えを残した調子で子供は呟く。そういえば、今でもリーオはこの子供に少なからず恐れられているのではなかっただろうか。さすがに物をかつぎ出すのはまずかった、この時のことは今でも少し後悔していると、いつだったかリーオに直接聞いたことがある。

「……ねーリーオ、どうしてリーオはエリオットをおこったの?」

顔を上げて、気を取り直したように子供が尋ねる。嵐の去った大広間には、次第に人もはけて元の喧騒が広がり始めていた。

「ん……君を怒鳴ったことで?」
「ううん、そうじゃなくてね……どうしてわるい人はわるくなくて、いい人はよくないの……?」
「ああ、そのことか。それはね……僕自身が善人にも悪人にもなり得るってこと、エリオットに知っておいて欲しかったから、かな。……結局伝わらないように話しちゃったけど」

何しろ怒りにまかせて言いたいことまで交えるのには無理があった。苦々しげにリーオは思って、続ける。

「人間なんて良い行いをすることも悪い行いをすることもあるから、その時々に合わせて正していかないと。決め付けてしまうことが何より一番怖いから。……それがたとえば信頼だとか、いつまでも信じていたいものだったとしてもね」
「リーオもわるいこになるの……?」
「……そうだね、なるかもしれない。君にはまだ分からないと思うから、分からないままでも別にいいけど。……でもね、覚えておいて。確かなものなんてどこにもないんだよ。いつか全部が壊れてしまうかもしれないってこと、……それだけでも忘れないでいて」
「……?うん、わかった……」

曖昧に頷いて、子供はそれきり走り去ってしまう。どこか意味深なリーオの言葉を、一年越しにエリオットも受け取った。その意図を正確に知ることは出来なかったけれど、リーオなりに決意の含まれた言葉なのだろうということだけは、今ならきちんと理解出来たから。

←Back →Next