薄命なプラナス-6-

「きっついなー、結構」

どこ行ったんだろう、エリオット。何とはなしに呟くリーオは、ジャックと別れてサブリエの道をひたすらに進んでいた。ジャックの居た場所を中心点として、そこを離れれば離れるほど、だんだんと息苦しさが募るのが分かる。

何の力も及ばなかった一度目とは雲泥の差だけれど、それでも、どうやら少し参り始めている。もしかすると、案外と影響を受けやすい性質なのかもしれない、と思えた。

「兄さん。……どこにいるの、兄さん!」
「ん……?」

そこから少しも経たない頃、突如、かげり始めた空に甲高い声が響く。焦燥に駆られたような叫びにリーオが振り向くと、そこに立っていたのは、どこか見覚えのある色彩をもった少年だった。

「時間がないのに。……見つけなきゃ、ぼくの大事な兄さん……グレンなんかに渡してやるもんか……」
「え……お義兄さん?」

少年の姿を認めて、リーオは呆気に取られて立ち止まる。もしも見間違いでないのなら、遠くに立っているあの子供はヴィンセント=ナイトレイ、エリオットの義兄にあたる彼ではないだろうか。何せ特徴的な赤色と金色の瞳に鮮やかな金髪は、国中を探してもそうそう存在する取り合わせではない。

「待ってて、もうすぐ……もうすぐ助けるから……」

彼の位置は少しばかり遠くて、上の空で呟かれる言葉は途切れ途切れにしかリーオには届かなかった。けれど、見れば見るほど、あの子供はヴィンセントであると言う確証ばかりが募る。

リーオには当然ながら、ヴィンセントが幼かった頃の記憶は無い。エリオットは彼があのくらいの頃から屋敷に同居していたのだろうけれど、何しろリーオがナイトレイ家に出入りするようになったのは、ほんの一年ほど前の出来事だったから。

思考したいくつかの事実から、これが自分でない誰かの記憶なのだということは理解できた。けれど、それがかえって都合の悪い事態を招きかねないことにもすぐに気付いた。先ほどジャックが聞かせてくれたこの空間の法則が真実なら、それはつまり「この幼いヴィンセント=ナイトレイは過去における現実だ」という事実を肯定するしか無くなってしまうということだ。

「……あら、ヴィンセント。今日もひとりなの?ギルは可哀想ね、あなたを救いたかっただけなのに!」

唐突な映像にリーオがうろたえているうち、少女がふいに姿を現した。数々の記憶が混在しているこの場所は、文字通り何でも有りの空間らしい。空間法則など丸無視で、現れたければ現れ、消えたければ消える。とても常識の範囲内では有り得ない出来事に、リーオはただただ困惑する。

誰かの記憶――おそらくはヴィンセントの記憶なのだろうこの場所は、リーオが知っている限り、この国のそれではなかった。これが現実なのだとしたら、彼は一体何者なのだろう。彼の兄――ギルバートの名を呼ぶということは、おそらくは彼もここに居るということだ。

「――黙れよ、アリス。ぼくはお前に言ってもらうことなんか何一つない」
「ああ、あなたって本当に疫病神だわ。かわいいお人形を切り裂いたり、チェシャを傷つけたり、ジャックを独り占めしたりして私のことを虐めるの。ひどい目にでも何でも遭えばいいのよ。私、あなたには同情なんて出来ないもの」
「うるさい!今、急いでるんだ。……どきなよ。それともチェシャみたいにされたい?」

いらついた様子でヴィンセントはアリスと呼ばれた少女を睨む。殺意交じりのそれに物怖じもせず、アリスは続けた。

「ああ、ギルは今頃グレンに身体を取られてしまっているんじゃないかしら。可哀想なギルバート。禍罪の子のおとぎ話は本物だったんだわ!あなたが居ると、大事な人みんなが不幸になるのよ」

ジャックだってきっとそうよ。だからもう、これ以上ジャックに近付かないで。いつかあなたのせいでジャックが不幸な目にあったら、あなたのこと恨んであげる。

含みのある調子で、笑みさえたたえてアリスは言った。そこでようやくヴィンセントもアリスへ意識を向けたらしい。片手間にあたりを見回すことを止め、ひどく歪んだ笑みで彼女を見据える。

「……馬鹿だよね、ほんとにさ。自分が無力なくせに誰かを槍玉にあげなきゃ安心して生きてもいけないんだ。誰かに罪を押し付けて、それで満足するの?アリスみたいな自分勝手な人間、……ぼくは大嫌いだよ」

誰もかれもがそうだった。確かか不確かかさえ分かりもしない伝承を信じて、幼い子供をよってたかって疎んじる。思いながら小さく拳を握るヴィンセントに、悪びれもせずにアリスは叫ぶ。

「なによ、ジャックが大事なのはあなたじゃないもの!……きっとそうだもの!もしかしたらあなたのことが疎ましくって、グレンを手伝ってギルを捧げようとしてるのかもしれないじゃない!」
「ジャックを悪く言うな!……ジャックがそんなことするもんか」
「そんなのわからないじゃない……!ねえ、どうして?どうしてびんせんとはわたしをジャックから遠ざけようとするの……?ねえ、なんでそんなことをするの……?」

堰を切ったようにこぼれ出す涙に心からの憎しみめいた一瞥をくれて、ヴィンセントはひどく冷めた笑みを浮かべる。この女は自分勝手だ。いつもいつも、ジャックが大切だと言いながら、自分を正当化するためにはジャックでさえも貶める。本人はそれに気付かないまま、いつだってこうして被害者顔ばかりするんだ。

――偽善者ですらない。ヴィンセントは心の中で吐き捨てるように言い放つ。今、こうして関わっていること自体が不快だった。早く兄を探しに行かなければどうなるかも分からない状況の中で、こんな戯言に付き合っている時間など少しもないのに。

「ジャックがぼくを好きだろうと嫌いだろうと、そんなことはどうだっていいよ。ぼくがジャックを好きでいるから。……それに、ジャックはギルを大事にしてくれてる。……それなら、別にそれだけでいい」
「なによ、なによ……!こうしてびんせんとがわたしをいじめる間にギルはしんでしまうんだわ……!こんどはあなたが不幸になる順番なのよ……!」
「……前から思ってたけど、君ってやっぱり狂ってるよ。……早くどっか行けば?言いつけ破って逃げ出してきたんでしょ。これ以上ぼくに絡むなら、ぼくがグレンに言いつけてやる。……アリスが屋敷から逃げ出してた、ってね」
「――っ、あなたって本当にひきょうだわ!……禍罪の子!」

激昂して、アリスはそこから去っていく。

傍らで眺めるばかりのリーオは、言葉を無くして立ち尽くしていた。




「……様、ヴィンセント様」
「――エコー?……ああ、夢か」

浅いまどろみから覚めて、ヴィンセントはひどく不快そうに部屋隅の時計を一瞥する。懐かしい夢は、よりにもよって見たくもないあの女の映像だった。まだ幼い頃――彼が悲劇を起こした百年前の、あの世界に生きていた頃の記憶だ。

「……何かあったの?」

ヴィンセントの部屋に立ち入ったエコーは、変化の薄い表情のままで立ち尽くしている。わざわざ彼を起こしてまで伝えようというからにはそれなりの用件なのだろうが、特に焦った様子も見られない。とは言え彼女はいつもそうだったから、ヴィンセントもそれを気に留めることはなかったけれど。

「先ほど入った情報によりますと、サブリエで子供が一名行方不明になったとのことです。」
「へぇ……またあの家かい?」
「そうです。フィアナの家で失踪者が出たとヴィンセント様に通達するよう、エコーが公爵様から仰せつかってきました。」
「……そう。ご苦労様」

語調も変えず、なんでもないことのようにエコーは告げる。内容を聞いたヴィンセントも別段目立った反応は出来なかったけれど、以前もあの地で同じようなことがあったな、とだけは思い返しておいた。大抵、この知らせの大元はナイトレイ家が管理しているあの家だから、今更何の不思議もない。

養子の立場だからなのかは知らないが、ヴィンセント自身は幼少の頃、あの施設へ足を踏み入れることを許されていなかった。今でこそパンドラの一員としてあの場所を訪れる権利があるけれど、公爵はヴィンセントとギルバートをあの施設からことさらに遠ざけたのだ。つまりはそこに何らかの込み入った事情があるのだろうとは察せられたが、家の事情自体にはあまり興味も無かったから、ヴィンセントも現在に至るまで、詳しい追求は放っておいている。

「……それで、他には?」
「救出に、エリオット様とリーオさんが向かっていったそうです。たまたまお二人が訪れていたので、施設の人間が助けを求めたとか。」
「エリオットが?……ふふ、相変わらず無鉄砲だね、彼は」
「いえ、エリオット様は追いかけていっただけだとここに来た施設員が話していました。実際に向かって行ったのはリーオさんの方だそうです。」
「へぇ……彼が。……ああ、そっか。彼はあの家の出だったもんね。それは……義父上に知れたら懲罰ものだろうね。まあ、僕はどうだっていいんだけど」

にこりと笑ってヴィンセントは言った。兄弟を案じる気持ちなら、辛うじて理解は出来た。たった一人の兄をこれほど執拗に守りたいと願うのと同じだろう。程度の差はあれど、兄弟愛なら理解が及ぶ。

いつだったか「あの家」の人間はみな家族として生きている、と誰かに聞かされたことがある。別に聞きたくもない説明を愛想良く聞かなければいけない事態になって、随分辟易したからあの時のことはよく覚えていた。

ただ、それでも一応はナイトレイ家の使用人という立場の彼だから、大切な嫡子を危険に晒すことはやっぱり許されないのだろう。もっとも、それより罪深いことを進めようとしている義父がそれを咎める光景は、ヴィンセントが想像するにはあまりにも滑稽だったけれど。

「ヴィンセント様……?」
「僕はとりあえず様子を見るよ。エコー、君は向こうへ行って様子を見てきてくれるかな」
「……かしこまりました。」

相変わらずの無表情のまま言って、エコーはそのまま部屋を出る。残されたヴィンセントは、再び先ほどの夢を思い返していた。

あの女もまた、禍罪の伝承を信じていた。――いや、信じていたというより、あの女にとってそれは体の良い迫害の道具だったのだろう。ジャックに依存していたあの女は、僕やギルがジャックと馴れ合うことをおかしなくらいに嫌っていたから。

「……馬鹿げてる」

ジャックが認めてくれたこの瞳は、百年後の世界に落ちてきた今でこそ大した重荷になりはしないけれど、ギルを苦しめたのはそもそもがこの瞳のせいだ。毎日、毎晩僕のことを置き去りにして行こうとして、兄さんは結局それをすることが出来なかった。

何度、そのまま置いていってくれたらと思っただろう。僕は、ギルが幸せになれるなら別にそれでも良かったんだ。どうせ生きていたって迫害を受け続けて逃げ惑うだけの腐った世界、ギルが居ないなら何の未練もない。今、疑いあうだけの浅ましい人間関係を繕ってまで生きているのだって、ぜんぶがギルのためなんだから。

何も無かったことになってしまえばいい。そう思う。ギルがグレンに狙われたことも、こちらへ来てたくさんの人を殺した日々も、――もしギルが望むなら、いっそ僕が居た事実だって。

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