薄命なプラナス-9-

――怪しい者ではありません。そう言って怪しまれずに済む法則などこの世にはまず無い。つまり、パンドラの人間として堂々と入り込むことが最重要項目だ。

微笑しながら「家」の呼び鈴を鳴らしたブレイクは、待ちつつ担当者に掛ける一言目を思案する。パンドラの人間であること自体はすぐに証明できるが、用件はそれなりに練っておかねばなるまい。興味があるので見学させてくれ、などもっての他だし、かと言ってでっちあげた調査は逆にパンドラへ連絡が行く恐れがある。――かくなる上は。

「あら、こんにちは。どちら様ですか?」
「エー、私、パンドラの者なのですが、少々そちらの蔵書をお借りしたく……」

パンドラの証であるペンダントを差し出して、もっともらしくブレイクは言った。この場所にある蔵書は少々取り合わせが変わっているから、こうして尋ねてくる者は少なくないと聞く。

「あら、パンドラの方でしたか。わざわざご足労いただいて……ご連絡いただければそちらへ参る者へ一緒に持たせましたのに、まことに申し訳ありません」
「イエ、たまたま近くまで足を運んでいたものですから。むしろ突然伺ってしまって申し訳ない。ご迷惑ではありませんでしたカ?」
「そんな、迷惑だなんてとんでもありません。ただ……その、少しごたついておりまして……もしお急ぎでしたら、少々お待ちいただくことになってしまうのですが……」

歯切れ悪く言ったっきり、女性は視線を彷徨わせる。僅かに開いた扉の向こうには走り回る大人と泣き喚く子供たちが散見されて、たしかに尋常ではない様子だ。

「……何かあったんですカ?」
「あら、すみません。内輪のことですので、お騒がせするほどのことではないのですよ。……いえね、子供の些細な喧嘩です。あのくらいの年頃の子がたくさん集まると喧嘩も絶えなくて」

――内輪のこと。余所者を遮断するための常套句だ。今までいくらでもこの言葉を耳にしてきたし、それが真実であったことが一体どのくらいあっただろう。

好奇心から問い詰めたい気分にもなりはしたが、立場上それは許されない。こんなところでヘマをするような愚かさは持ち合わせていないつもりだし、ここは無難に立ち回っておくしか無さそうだ。

「それでは、少々待たせていただいても構いませんカ?少し急ぎでしてネ、自分で直接持って帰って使いたいものですから」
「ええ、それはもちろん構いません。どうぞ図書室の方へお上がりくださいませ。申し訳ないのですが記録を取らないことには貸し出し出来ませんので、担当の者の手が空くまでご自由にお過ごし下さい」
「エエ、わざわざ有り難く存じます」

丁重に礼を言って、ブレイクはそそくさと図書室と呼ばれる場所へ上がり込む。内部が問題を抱えているというのは不測の事態だったものの、とりあえずの目的は達成出来たと見て良いだろう。

「さーてと……いい加減に出てきたらどうなんですカ?溝ネズミの真似事とお見受けしますが」
「……気付いていたんですか。」

声を掛けて一瞬。珍しく苦々しげな顔をして現れたのは、これまたブレイクが予測していなかった人物だった。いくら彼女がヴィンセント=ナイトレイの従者であるとはいえ、この地に単身で立ち入る許可が出ているとは至極意外だ。

ともかく、ヴィンセント=ナイトレイまでもが動き出すということは、どうやらよほど重大な事態がこの家で起こっているということらしい。

「貴女のご主人、お元気ですか?私としては早々にくたばってくれると大変喜ばしいんですがネ」
「……何をしに来たのですか。」
「おや、それはこちらのセリフだと思うのですがね。溝ネズミの従者がこんなところで何をこそこそ嗅ぎ回っているのやら……」

嘲るようにそう言って、ブレイクは目の前に立つ少女を一瞥した。彼の視線に眉ひとつ変えず無表情なまま、構えられたナイフに反射する光が滑る。

――自分はともかくとして、だ。思いながら、ブレイクは浮かべた笑みを歪んだそれへと変えた。ナイトレイ家の従者は常日頃から、四六時中を主人と過ごすと聞いている。特にそれがヴィンセント=ナイトレイであれば尚のことだろう。なにしろあの男はいつ眠りに落ちるか分からない潜在不安を、この人形のような従者で補っているのだから。

その右腕とも言える存在を単身でこんなところに遣いにやる以上、それなりの用件であることには違いない。家で何かが起こったか、もしくはギルバートに何かあったか、割合火急の事態である可能性が高いだろう。

「それで?此処には何の御用なんデショ。良ければ教えていただけませんカ?」
「……エコーはヴィンセント様の命でやって来たに過ぎません。ナイトレイ家の人間ではない貴方がここに居ることの方が、至って普通ではないとエコーは考えます。」
「ほう、正論ですネ。何を考えているかと思えば、ただの馬鹿ではないらしい。……まあいいでしょう。いくら何でも今ここで貴女と事を構えるわけには行きませんからネ」

言って、ブレイクは牽制のために掲げた剣を傍らに収める。対するエコーも危険が無いことを気取ったのかナイフをするりと仕舞い込み、喧騒に満ちた施設の広間へと姿を消した。

「ナイトレイ家の人間は随分と好待遇ですネェ。一体あの奥で何が起こっているのやら……」

いずれにせよ、今は気にしたところで仕方がない。思って、ブレイクは図書室の文献を何とはなしに触れ回り始める。この施設には以前からやたらと貴重な資料が多いと聞くが、代わりに当たり前の物が存在しないと聞かされてもいた。

以前この施設を訪れたレイムの話によれば、この場所には昔話の類が一切存在しないのだそうだ。施設の目的上子供が多いはずのこの「家」に、恣意的にそれらが置かれていないとなると、これまた後ろ暗いところがあるように思えてならない。

「ふむ……確かに」

周囲を眺め回したブレイクは独りごちて、レイムの言葉が真実であることを確かめる。伝承や昔ながらの知恵めいた閑話など、そういったものがこの部屋には一切存在しないようだ。それが一体何を意味するものなのかは分からなかったけれど、薄気味の悪い事象にもまた違いは無かった。

「お客様?お待たせしてしまって申し訳ございません。どちらの本をお持ちになられますか?」

そうして少々の時を過ごしているうち、先ほどの係の女性が姿を現した。すぐにそれらしい表情を作り直して、ブレイクは彼女を振り返る。

「おや、ご苦労様デス。うーん、どれにしましょうかネー。どれも興味深くって決めかねてしまいますヨ」
「この家には貴重な蔵書が多くございますからね。お時間が許す限りゆっくりして行って下さいませ」

そう言って微笑む施設の職員を見定めるかのように、ブレイクは「そうですカ?」と少し笑った。

――警戒心の薄い、他人を信用する人間の目だ。そう結論付けて、それとないふうを装いブレイクは本題に入ろうと試みる。違和感を覚えられればそれで終わりだ。綱渡りではあるが、多少の危険は仕方が無い。いくら待っていたところで、身を蝕む呪いは決して待ってはくれないのだから。

「……そういえば、ちょっとばかりお尋ねしたいことがあるのですが」
「はい、何でしょう?」
「ナイトレイ家のリーオ、と言う少年はこちらの出身だと聞いたのデスが、それは真実ですカ?」
「リーオ……ですか?一年前からナイトレイ家のエリオット様にお仕えしているリーオでしたら……ええ、彼はこの家の出なのですよ。お知り合いでしたか?」
「あー……エエ、まあ、そんなようなものデス。ここのところ姿を見掛けないものですカラ、どうしたものかと思いまして」
「あら、そうでしたか。……ふふ、あの子は絶対に自分から外へ出て行くような子ではないと思っていたのですけどね。本当に、何があるかは分からないものです」

それもナイトレイ家の跡取りの方の従者だなんて。少しはしゃいだような調子で言った女性の様子に、ブレイクは少しの憐れみを覚える。――いや、これはこれで幸せなのかもしれない。貴族社会に組み込まれることを素直に栄華だと喜び、自身が勤めるこの場所を彼女はただただ誇らしく思う。そんなちっぽけな世界の理に何の疑問も抱かないことをまさか、愚かだなどと言える立場でもない。

「それにしても、エリオット様はリーオの何をそんなに気に入られたのでしょう。随分苦労なさったようですし、そこまでして……、あ」

そこまで言ってしまってから、しまった、という表情で彼女は苦笑する。おそらくブレイクがパンドラの人間であるということを思い出したのだろう。あまり内情を暴露してしまってはいけないと思いつつ、人の良さそうなふうを演じているブレイクに、彼女はすっかり気を許してしまったようだ。

「ごめんなさいね、この話はくれぐれもご内密に……」
「エエ、お約束しましょう。……それで?」
「あ……ええ。エリオット様がリーオを従者にとおっしゃったところまでは良かったのですが、なにしろこの家の人間はみな平民ですから。四大貴族の跡取りのご子息に平民の従者はいかがなものかと、あの頃は随分反対されておりました」
「……まあ、当然の反応ではありますネ。貴族は体裁にこだわるものですから」

嫌味にならないよう苦笑して、ブレイクは思案する。そこまでは理解出来るのだ。問題は最終的に何故ナイトレイ公爵がそれを認めたのか、ということであって。

「……それで、結局リーオはエリオット様の従者に認められた、と?」
「はい。気が付けばあの子はナイトレイ家のお墨付きをいただいておりました。何だったかの切っ掛けがあったとは聞いているのですけれど、私は細かいところまでは……」

言って、女性は心底不思議そうな表情を浮かべたのちブレイクの選んだ一冊の本を受け取った。「ああ、そういえば」と、同時に女性が声を発する。

「子供を助けたんでしたわ、彼らは。詳しい経緯は存じないのですけれど、勝手に飛び出した家の子供を連れ帰ってきたことがありました。もしかすると、それでリーオを信用なさったのではないかしら」

なんて、本当かどうか分かりませんけどね。にこやかにそう言った女性に微笑をくれて、ブレイクは思案する。いや、あの男はそれしきの理由で平民を迎え入れたりなどするまい。嘲りを込めた笑みを内心だけで浮かべて、ブレイクは少々視線を落とす。

――やはり、一筋縄にはいかないらしい。

「では、そろそろ……。お手を煩わせてしまって申し訳ありませんネ。用件も済んだことですし、勝手ながらこれにて失礼させていただきマス」
「ええ、お気に召すものがございましたら幸いですわ。それでは、ご返却の際は本部の使者にお任せください。こちらでお受け致しますので……」
「エエ、承知しまシタ」

これ以上の詮索は無意味であることを気取ったのか、ブレイクは早々に話題を切り上げ、どこかサブリエに不似合いな純白の施設をあとにする。

今もばたつく空間に広がる風景はどこか無機質で――どうしてなのだかその居住まいは、ひどく体の良い牢獄のようにも見えた。

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