Dear blue-10-

「エリオット、あっちだよ!」

リーオが示した方角は、今二人が居る場所よりもさらに閑散とした路地裏。ひとつ、ふたつ、みっつ。入り組んだ角を曲がれば、痛いほど冷たい空気が纏わりついて離れない。

「何だ、この重々しさは……」
「気をつけて、近い!」

エリオットの少し後方から、ありったけの勢いでリーオは叫ぶ。もうどんなふうに進んできたかも思い出せないくらい、入り組んだ路地裏はひどく暗澹として冷たかった。

そのまま、気配のする中心点に向かって進んでいく。張り詰めた緊張に、しばし無言の瞬間。

「――お、父……さん」

息を殺して進む二人に、ふと、すすり泣きが聞こえた。

「あれは……?」

動きを止めた二人の耳に、「お父さん、お父さん」と、ひどく悲しげに嘆く声が届く。夜闇にいっそう暗く落ち込んだシルエットは、影に隠れて実体がよく分からない。

「……どうする、エリオット?」
「ここまで来たら行くしかないだろう。レイムの言っていたのがあいつなら、そのまま帰るわけにもな……」
「うん。……でも気をつけて、間違いなくさっき感じたのはあの子のチェインだ」

リーオの助言に頷いて、二人はエリオットを先頭に、一歩ずつ慎重に距離を詰めていく。時折苦しそうな声を上げながら父の名を呼ぶその影は、近付くにつれ、どこか幼さを思い起こさせた。

「なんでっ、わたし……お父、さん……?」

悲壮なその声に続けて、声の主が月の光に姿を映す。そうして視認した人影に、二人は絶句した。頭を抱えて苦しみながら、時折正気に戻って、張り裂けそうな声で泣き叫ぶ。痛いほど伝わるのは絶望、恐怖――それから、ひどく深い悲しみ。

けれど二人が言葉を失ったのは、ただ単純にその姿に恐怖したからではなかった。
あろうことか、それが――よく見知った面影だったから。

「え、あの子、って……」

絞り出すように呟いたリーオへ、エリオットはやり切れないといった表情で頷いた。夕刻を過ぎて出会った少女が今、彼らの目の前で狂おしいほどの闇に苛まれて泣いているのだと。そう理解するまでに、少しの間。

――赤色は花だと、そう言った、あの子が。

「何でだよ……何で!」
「待って、エリオット!」

事態を理解してすぐ、怒りに震えるといった様子で、エリオットは少女の元へと真っ直ぐに走り出す。アヴィスへと堕ち行く人間を見るのは、彼らにとってこれが初めてのことではない。いつだったか一度だけ、サブリエの外れでその瞬間を垣間見たことがあったから。

けれどあの時見かけたのは、どこの誰かも見知らぬただの人間だった。今は違う。二人がその手で救い出した人間が、この国の禁忌を犯し、罰を受けようとしている。

「おまえ、何故……!」
「だれ……?こないで、ここは、ここはだめ……」

罪に抗う少女の目の前に立って、エリオットは困惑したように問い掛けた。傷ついた少女はそれでもまだ瞳に光を持って、目の前に立つそれが誰かも分からないまま、エリオットを遠ざけようと必死にもがく。

「はやく行って、だめ、もうすぐわたしは……はやく、わたしはもうひとりでいい……」
「一度助けた奴を見捨てるわけにはいかねぇだろうが!」
「助けた……?いちど……?あ……そんな、お兄さん、たち……?」

あふれる涙の向こうに二人の姿を認めて、戸惑ったふうに少女は呟く。だめ、近付かないでと、うわ言のように幾度か繰り返して。

「……違法契約者、だったんだね。君は」

少しして、追いついたリーオが少女へ近付くと、少女はいっそう苦しそうに涙を流した。あらわになった刻印の針は一周して黒々と模様をかたどり、振れきって手の施しようが無い状態だ。そんな状態でも未だに正気を残している少女は、やはり藍色がかって見える瞳に光を残して、弱りきっているのに力強い。

リーオはそんな彼女の出で立ちを、ひどく悲しそうな顔をして見やる。少し落ち着くのを待って、なおも彼女に問い掛けた。

「……どうして、こんなことをしたの?」

限界寸前の少女を目の前にして、リーオに遠い、遠い昔の記憶が蘇る。年を追うごとに薄れて来ているあの光景は、それでも、たしかにリーオが大切な誰かを失ったときのものだ。あのときの記憶が今になって曖昧な理由を、リーオはよくは知らない。事件の衝撃で詳しいことを忘れてしまったのだろうと昔誰かに言われた気がするけれど、何故だかそれは違うような気がしていた。だって、たしかに昔は覚えていたことだから。

ここのところ、何かがおかしいような気がずっとしている。それが誰かのせいなのか、僕自身のせいなのかは分からないけれど、不安感にも似た違和感みたいなものが、時折現れては消えていく気がして釈然としない。

「……わたし、は」

少しの間が空いて、少女はところどころをかすれた声で語りだす。苦しそうな表情にも精一杯の笑みを浮かべて、それはとても、この国の禁忌を犯した重罪人とは思えないような、強く清廉な出で立ちだった。

「お父さんに、会いた、かった。……あいたかったの」
「……父親?」

会いたい、会わせたい。父親に、娘に。何か引っかかりを覚えて、横からエリオットが問い返す。力なく頷いて、少女は続けた。

「お父さん、さよなら……できなくて。それじゃ、色が、……、たりなくて……。だから……」

会いたかったの。とても、会いたかったの。幾度かそう繰り返して、年齢よりも少し幼い口調で少女は大人びた笑顔を見せた。途切れ途切れの言葉は必死さをはらんで痛々しさに満ちて、締め付けられるような心地でいるうち、黒く立ち昇るゆらめきが強くなる。

みるみるうちに衰弱していく様子をどうすることも出来ずに二人、眺めているまま。けれど、依然堕ちて行く様子は見受けられない。もしかすると、もう少し頑張れば、きっとこの子は。

「もう、わたし……」
「待って。まだもう少し、頑張って。……その方がきっといいから」
「……リーオ?どういう意味だ?」
「……アヴィスは牢獄。一度迷い込めば、永遠に魂が彷徨い続ける場所だって言われてる。罪を犯して堕ちれば、永久に苦しみ続ける場所なんだ。そんな場所に堕ちるより、それならずっと……」

ここで死んでいった方がいい、と。そこまでを口にはしなかったけれど、エリオットもリーオの意図するところをすぐに察したようだった。

アヴィスは未知。それゆえリーオの一説も真実かどうかは分からないけれど、少なくとも、常闇に少女の末路を託す光景はあまり気持ちの良いものとは言えそうにない。

「……でも、もう……ごめん、なさい……」
「……ずっと気になっていたんだが、どうしておまえはそうも謝ってばかりなんだ?正しいと思うことをしたなら胸を張ればいいじゃねぇか。……後悔するなら、真っ直ぐ後悔しろ」
「すみませ……あ、……そう、ですよね……。そう、思います……」

悲しみに満ちたまま、涙さえ枯れかけて少女は呟く。それからすぐ、震えた手で首にかかったロケットを、彼女はやっとといった様子でエリオットへ差し出した。

「おねがい……写真、持って、いて……」
「写真……?」

言われるままに、エリオットは手渡されたロケットを開いてみる。月の光に照らされて映り込んだのは、優しげな父親と母親――それから、幸せそうに笑う、青い瞳を持った少女だった。

「……エリオット、これって……?」

エリオットが驚きに立ち尽くしているうち、横から覗き込んだリーオがひどく戸惑った様子で声を掛ける。写真に写っている母親らしき女性は、昨日の朝、二人が出会った娘を探しているというあの女性だ。二人の両親に囲まれて幸せそうに笑う上品な娘は、間違いなく、彼女に渡された写真に写る、母娘の娘の方。

――ああ、そうか。全ての謎が解けたとでもいうように、エリオットは力なく溜め息をついた。夕刻この少女に出会ったとき、感じていた違和感は瞳の色とというより凛とした輝き。思い起こせばひどく似ている二人の雰囲気に気付かなかったのは、少女の出で立ちが、とても貴族のそれとはかけ離れていたからなのだろう。

「お父、さんの、こと……忘れようと、思って……。毎日ね、瞳の色、変えたの。鏡を見ても、誰が私を見ても、お父さん、もう居ないんだって……ちゃんと、分かるように。……でも、忘れ、られなかった、……!」

この子、瞳の色を変えられるのよ。だから、何度もそうしたの。おぼつかない言葉でそう語り終えると、少女の瞳はとても澄んだ青色に変わる。同時に背後に浮かんだのは、一見無害そうな、くまのぬいぐるみを模したふうのチェイン。

「……綺麗な色だな。父親からか?」

澄み切った青色を目にして、穏やかにエリオットが呟く。

「……うん、そう……。とってもね、綺麗だったの。お父さんも、……お母さんも……とっても……」

まどろむように、だんだんと言葉少なになっていく少女を、やり切れない様子でただ二人、見つめる。少しして、ふ、と静かに音を立て、チェインは闇へと沈んで行った。

「……ああ、あの子、も……いなく、なっちゃった……わたしの、いろは、さいごまで……」

まるで愛おしいものを見つめるような瞳で、少女はチェインの消えていった虚空をうつろげに見つめた。一瞬ごとに弱まっていく光は、もうどれほどの姿を映しているのか定かではないほど、ただ、青く泰然としている。

「おかあさん……元気、かな……。心配、してるって、思うの。バカな娘だから、わた、し……」
「……、おまえの母親になら、会った。……随分とおまえを心配していた」
「ああ、……ほんとう……?よかった……よか、った。ねぇ、もし、あえた、ら……」

――だいすきっ、て。

そう言い切って、少女は朽ちる。とても優しげな笑みを浮かべて、まるで幸福の只中にあるような――ひどく、安らかな笑みを浮かべて。

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