Dear blue-9-

宿の一室で荷物を整理する二人は、眠るでもなく、ただのんびりとした時を過ごしていた。ラトヴィッジの寮では消灯時間が定められているし、ナイトレイ家に戻ればやはり自由というわけにもいかなかったから、こんな機会には大抵夜遅くまで語り明かすことが多かったのだ。

議題はそのときによってまちまちだった。ある時は教授の悪口大会だったり、ある時は一冊の本についての考察を繰り広げたり。大抵話の内容はそれほど重みのあるものではなかったけれど、二人にとって、この瞬間は限りなく尊いものだった。

「あ、ちょっと見てよエリオット。この楽譜、懐かしいと思わない?」

しばし無言が貫かれていた空間を、リーオが何の躊躇いも無く打ち壊す。呼ばれたエリオットもそれが当然と言わんばかりの自然さで、少し離れた位置からリーオの方へと距離を詰めた。そうして覗き込んだページには、エリオットも見慣れた譜面が描かれている。

「ん?……ああ、オレが初めて聴いたおまえのピアノはそれだったな」
「弾きだした途端にすごい勢いで飛んでくるから何事かと思ったよ。エリオットもピアノやってたなんて僕、あの時知らなかったし」

二人の出会いはまさに最悪と言って良いものだったから、当初、二人はお互いのことをよく知りはしなかった。しばらくはどことなく牽制し合う日々が続いたし、お世辞にも良好と言えるほどの関係は存在しなかったから、憎まれ口を叩き合うだけの、彼らは不思議な繋がりだった。

それが変わったのは、今リーオが指し示したこの曲の力が大きい。この曲というのは元々連弾用に作られた曲で、一人で弾いてもそれなりの風情が出るけれど、二人揃って初めて真価を発揮するものだったから。

「人の演奏止めてまで、誰に師事してたんだ!なんて聞くんだもん。何こいつ、って思っちゃったよ」
「それは……まあ、悪かったが、独学だなんて思わないだろう、普通」

リーオの技量はあの時点で嗜みといったレベルを超えていたから、てっきり誰かに師事したものだと思い込んでいたものだった。読書を遮ることほど重罪ではないけれど、リーオは自身の行動を誰かに制限されることをひどく嫌う。たしかあの後も随分不機嫌になっていたなと、ふと思い返してエリオットは苦笑した。

リーオが奏でる独特の音はどこか危うげと言うか、少なくともそれほど愉快なものではなかったけれど、エリオットは繊細なその音が好きだった。何かに縛られないその自由さは、かつてのエリオットには無いものだったから。

ナイトレイ家に属することは、誇り高きことであると同時に自由を縛られることでもあった。当時の彼自身はそれを認識していなかったけれど、無意識に自由を欲していたのだろうと思う。腹の探り合いを繰り返して得られる僅かな利益のために、息苦しい主従をエリオットが強いられかけていたように。

「誰かに教えてもらうのって面倒そうじゃない。誰かの演奏聴くのは好きだけど、誰かの感性押し付けられるのってキライだし」

そんなことを呟きながら、リーオは手元の楽譜をぱらぱらとめくっていく。当時蔵書にあったその楽譜集は、いつだったか家の人間から譲り受けたものだ。

「そういえば、来年の曲はどうするの?今年は何とかなったみたいだけど、毎年悩んでるじゃない。去年なんて君、僕に真剣に相談するくらい煮詰まってたみたいだし」
「来年な……母上の元気なお姿を見られればまた何か思いつくかもしれないんだが、今のあの状態では……」
「……でもまあ、きっと頑張れるよ。君のお母様も喜んでいたみたいだし、また急にいい曲が思い浮かぶかもしれないしね」

そっと言って、リーオは「ね?」とエリオットに笑いかける。年を経るごとに家族を減らしていくあの事件は、エリオットの母親を確実に衰弱させていた。ありもしない信仰――ましてやあの男の息の掛かっている組織へと傾倒している現状を、彼女が可愛がるエリオットですら止められない。

責任感の強いエリオットが、それをひどく嘆いていることはリーオとて知っている。――知っている、けど。

「……おまえ、一曲書くのにどれだけ苦労するか知らないだろう。何も無いところから降ってくれば楽なんだがな」
「えー、でもよくいるじゃない。ふとした瞬間に最高のメロディが!なんて言ってる作曲者。あれは?」
「曲が出てくるのには何かの理由があるんだよ。本人がそれを偶然だと思うかは自由だが、オレに言わせればそんなことは有り得ねぇ。そうじゃなけりゃこんなに毎年苦労するもんかよ」
「……もしかしてだけど、それって君のセンスの問題だったりしてね?」
「リーオ、おまえな……」
「冗談だって。僕は好きだよ、エリオットの曲」

怒るというよりは呆れているエリオットを横目に、リーオは改まってふわふわと笑った。こんな毎日がずっと続けばいいのにと願うけれど、心のどこかでそれが叶わないような気がして怖くなる。

自分の幸福や不幸に関しては、以前より随分自覚できるようになった気がしていた。エリオットと過ごす毎日は間違いなく幸せだし、不幸と感じる瞬間は未だにまちまちだけれど、自分の感情の変化をはっきり感じられるようになったのは間違いなくエリオットと出会ってからだ。

今のリーオにとって、エリオットは支えであり、リーオ自身の軸みたいなものでもある。それは一歩間違えればとても危ういことだと分かっていたけれど、それでも、あの日手を取ったことを少しも後悔してはいない。

「初めて連弾したのっていつだっけ。その時もたしかこの曲だよね?」
「ああ、おまえがこの曲は主旋律しか弾かないと言い張るから、仕方なくオレが副旋律を弾いたんだろ」
「……だって、あの曲の低音って単調でつまんないんだもん。ずっと同じこと繰り返してるだけだし」
「まあ、あの曲でおまえに低音弾かせたらまともな曲になるとは思えないがな」

割合穏やかなあの曲でリーオ持ち前の自由すぎる演奏をされれば、エリオットが付いて行けないことは目に見えていた。決してエリオットの演奏が固いと言うことではないけれど、適材適所を考えると、おのずと曲の役割と言うのは見えてくるものだから。

ページを最後までめくり終えて、リーオはぱたんと本を閉じる。少し手持ち無沙汰になって眺めた裏表紙には、音楽家の格言らしきものが印字されていた。

「リーオ」
「格言なんてその人の成功にしか通用しないものじゃないのかなー。わざわざ同じことしたからってその人も成功するとは――」
「……おい」
「え、あぁ、なに?」
「寄りかかるな。重い」
「……いいじゃない。外じゃないんだから」
「そういう問題かよ……」

嘆きつつ肩を落とすエリオットに、リーオは構うこともなくその身を寄せる。曲がりなりにも主人と従者の関係である二人だけれど、当人たちとしては、そのことをそれほど意識してはいなかった。外では体裁を守って不用意な近付き方をすることはないけれど、人目に付かない場所なら話は別だ。

「……珍しいな」ぽつり、エリオットが呟く。「何か言った?」そう不思議そうな語調で返したリーオに、「何でもない」と、彼は続けて溜め息を落とした。

日頃から、リーオは必要以上に人と馴れ合うことを嫌う。それはエリオットに対しても基本的に変わりなく、こんな関係だからといって、取り立てて甘えたりということは少ない。本人は滅多に弱音を吐かないが、口にしないことで思いを隠し通せる関係はとうに過ぎ去ってしまった。意識的であれ無意識的であれ、リーオがこうなるのは、何か気になっていることがあるときだ。

「リーオ、おまえ――」

ガタン。疑問を口にしかけて、ふいに、部屋隅で音が鳴る。

「……何だ?」

ガタン。呟けば、エリオットの言葉を追いかけるようにもう一度。ふたつの言葉を遮ったそれは、カタカタと室内を揺らして――またすぐ、消えた。

「……家鳴り?」
「……待って、嫌な気配がする」
「気配?」
「すごく嫌な――これは、チェイン……?」
「チェインだと?……っ、とにかく表へ出るぞ!」
「うん」

慌てて立ち上がり、安穏とした空気を切り裂くように二人は外へ走り出す。一瞬漂った冷たい感覚は以前、リーオがあの家でよく感じていたものによく似ていた。それがアヴィスから漏れ出るチェインの纏う空気だと知ったのは、あの家を出てからすぐのことだ。

「何だってこんなところに……」
「もしかして、ミスター・ルネットの言ってた子供?」
「そいつにはまだ当分何事も無いんじゃなかったのかよ!」
「でも、考えられるのはそれくらいしか……。それに、侵食に絶対なんか無いしね」
「ちっ、とにかく急ぐぞ!」

宿の受け付けが驚くような速さで入り口を飛び出して、リーオも精一杯あとへと続く。真夜中の商店街には人ひとり通らず、しんとした静けさが吹き抜けている。

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