Dear blue-8-

「エリオット、早いね。何か分かった?」

リーオが集合地点に戻ると、エリオットは既にその場で待っていた。どうやら時間には間に合ったようだったから、特に咎められることもなくほっとする。

「駄目だ。何人かに声は掛けてみたんだが、それらしいことは誰からも聞けなかった」
「そっか。んー、やっぱり見知らぬ人を探すって難しいよね。どうしよ、そろそろ宿でも探す?」
「ああ、そうだな」

気付けば夕刻の橙色が暗色に落ち始め、この街も本格的な夜を迎えようとしている。お世辞にも治安が良いとは言い切れない場所だから、あまり夜遅くに出歩くわけにもいかないだろう。そう判断して、二人は近場の宿を探して歩く。もとより数日は覚悟の上だから、帰るつもりが無かったのはエリオットも同じことだったのだろう。特に驚く様子もなくリーオの提案に乗りはしたけれど、やはり彼はこういうところが少しだけ、普通の貴族と一線を画しているとリーオには思えた。

日頃あれだけ整えられた環境で過ごしているにもかかわらず、エリオットは階級が下の者に対して一切劣った見方をしない。庶民のものにも割合興味を持って接する方だし、明確な拒絶を示すのはそれこそベザリウス家くらいのものだ。持ち前の素直さが災いして熱くなりすぎることはしょっちゅうだけれど、それはそれでエリオットらしいと思えたし、そんな裏表の無い彼の隣は、リーオにとってもひどく居心地が良かった。

「……そういえば、さっきエコーに会ったよ」

ふと先ほどのことを思い出して、リーオは何とはなしにエリオットに告げてみる。ギルバートに関わることだと知れば、怒りながらもしっかりと聞き入れるに違いない。

「エコー……ヴィンセントの従者のか?」
「うん。街にいるなんて珍しいなと思ったんだけど、君のお義兄さんに届け物だってさ」
「ギルバートに?……リーオ、何故それをわざわざオレに言う?」
「えー、だって、やっぱり気になるでしょ?一応ちゃんとした兄弟なんだし」
「あ、あいつはナイトレイ家の一員とは認めん!誇り高きナイトレイを自ら去る奴など我が家の……」
「はいはい、それはもう分かったから」

やれやれ、とばかりに両手を挙げたリーオに湧き上がる怒りに水を差され、エリオットは盛大な溜め息を残して戦意を喪失する。何を隠そう、これらは今日に至るまでにもう幾度も繰り返されたやり取りだ。

最初の頃は遮られた怒りの矛先がリーオへ向いていたエリオットも、回数を重ねるたび、素直に窘められてやるようになった。以前に一度収拾の付かなくなりかねない大喧嘩をして、そのときのリーオの怒りがあまりに強かったものだから、この件に関してエリオットは一種のトラウマを覚えているといっても過言ではない。

「ったく……元はといえばおまえが――」
「……ん?待って、声が聞こえる」
「あ?」

言いかけたエリオットに、リーオは声を重ねて制す。訪れた静寂に、風に乗って声が響いた。

「ねーいいじゃん、オレらと遊ぼうよ?こんな時間にひとりで歩いてるなんて、どうせお相手探してたんだろ?」
「違います、わたしは……!」

聞こえた声は女とおぼしき一人分と、柄の悪そうな男が二人分だった。どうやら絡まれているらしいと察してすぐ、エリオットは事の発生源へと走り出す。

「あ、ちょっと、エリオット!……はぁ、行っちゃったよ」

本日数度目の呆れを覚えて、リーオもまたエリオットを追いかける。ゆっくりと走ってみて、たどり着いた先に居たのは予想よりも幼い少女と、比較的想像通りの長身の男が二人だった。

「何事だ?」
「何だ、おまえ。人様の目ェ付けた女ァ横取りしようってのか?」
「そんなことはどうでもいい。オレは何があったと聞いている」

たしかな苛立ちを含めて問い返すエリオットに、二人の男は歪みきった嘲笑を返した。だんだんと苛立ちが強くなっていくのを感じて、リーオはあからさまな溜め息をもってエリオットの隣に立つ。慣れたものだから今更どうということもないけれど、相変わらず正義感に燃える素直な性格をしている。エリオットは。

「おい、こいつ、世間知らずのお貴族様のようだぜ。俺らに盾突くなんざ――」
「……オレの言ってることが分からねぇのか?」
「は……」

ああ、ほらね。リーオがそう思ったと同時に、隣で声にならない怒りが爆発するのを感じた。一瞬遅れて、ひどく聞き慣れた怒声があたり一帯に響き渡る。

「人の話を聞けと言ってるんだ!ガキ怯えさせて、大の大人がやることじゃねぇだろ!」
「ハッ、やっぱり出来たお貴族様は言うことがちげぇや。奇麗事で塗り固められてやがる」
「……。黙れっつってんだろうがああぁぁ!オレの話を聞け!聞かないなら失せろ。斬り捨てるぞ!」
「あ、な……剣……?おい、こいつ刃物持ってんぞ。いいのかよ、お貴族様が刃物なんか持ち歩いて」
「オレはそういう弱いものにしか手を出せねぇ誇りの無い奴は許せねぇ。それとも何だ?正当な理由があるなら言ってみろ」

怒号を響き渡らせたあと、エリオットは一際静かに男二人へ問い掛ける。あーあ、エリオットってば相当怒ってるよ。不謹慎ながらも内心少し面白がりながら、リーオは事の成り行きを見守るだけだ。

「え、あー……いや、……まあ、スイマセンでした。おい、もういい。とりあえず逃げるぞ」
「は?おまえマジで何言って……」
「いいから」

怒りに荒れ狂うエリオットを前に、チンピラ二人は困惑して今晩の逃亡を決意する。蚊帳の外から見ている分には愉快だけれど、たしかにこの怒りをまともに受けるのは少々酷だろうとリーオには思えた。

彼らにとってはさらに悪いことに、エリオットはつい先ほど、リーオとの言い争いを中途で打ち切られている。鬱憤も溜まっているだろうし、まさか本当に誰かを傷つけることはしないと思うけれど、相手をさせられる彼らも少し不憫ではあるなとリーオは心中だけで少し笑った。

「目が据わってる。コイツはちっとやべぇよ。出直そうぜ」
「……分かったよ」

一度決めたら風のように去っていく。その間約数秒、彼らの姿はもう無かった。

「ったく、何だってんだ……」
「エリオット、いきなりあんなに怒ったら可哀想じゃない?いくらあの二人組が頭に来たからってさ」
「そうは言ってもな、オレの言うこと何一つ聞いちゃいねぇんだから仕方ねぇだろ」
「まあ、そうかもしれないけどね。……あ、そうだそうだ。ところで君、大丈夫?」

視界の隅にぽかんとした様子で立ち尽くす少女を捉えて、リーオはあたかも今思い出したというような調子で少女に尋ねた。よく見ると、どうやら年の頃はエリオットやリーオと同じか、もしくは少し下回るくらいと言った様子だろうか。随分衣服が汚れてしまっていてとても上品な身なりとは言えないけれど、醸し出す雰囲気はどこかしっかりとしたものを感じさせる。

リーオの呼び掛けに気が付いたのか、俯いたままの彼女がふと顔を上げた。綺麗に澄んだ、翠色の瞳が二人を捉える。

「あ、あの、すみません。助けていただいて……」
「怪我はない?この辺りはそんなに平和ってわけでもないし、あんまり夜にひとりで出歩かない方がいいと思うよ?」
「はい、怪我は大丈夫です。……すみません」

言葉のまま、少女はひどく申し訳無さそうに謝罪の言葉を述べる。やがて、一言一言にどこか含まれる凛とした響きに、リーオは少しの違和感を覚えた。

たぶん、エリオットもそれは同じだったのだろう。怒りも醒めて冷静になってみれば、何かを思い出せそうなもどかしさだけがその身に残る。どこかで会ったような。けれど、間違いなく出会ってはいないはずだった。

「以前、おまえに似ている人間を見たことがある……気がするな」
「え?」
「……いや、悪い。気のせいだろう」

そもそもエリオットやリーオには、彼女のような一般層に属する知り合いは居ない。ラトヴィッジの学生は基本的に皆貴族だし、時折外部から優秀な学生が入っては来るけれど、大抵、そのような人間とは関わり合いになることも無かったから。

それならば、拭えないこの違和感は――やはり、ただの気のせいなのだろう。そう思うことでしか自分を納得させられないことに、二人はなおも違和感を覚える。先から何か大切なことを忘れている気がするのだけれど、今ひとつ、それが何だったのかを思い出せずにもどかしい。

「……その瞳、綺麗な色をしてるんだね」

思考しているうちふと目に付いて、リーオは何気ない言葉を口にする。お世辞にも良いとは言えない装いの中で、浮世離れしたように澄んだその翠色の瞳は、暗色に溶けると少し青みがかって見えなくもない。

「ありがとうございます。……うん、綺麗だなって思います。……わたしも」

神妙さの中にどこか誇らしさを抱えて、少女は嬉しそうににこりと笑う。「わたし、この瞳が好きなんです」と。はにかみながら語るその少女に、リーオは言い知れない不安感にも似た感情を抱く。

翡翠の瞳は古来から尊ばれてきた高貴な色なのだと、リーオは昔、何かの文献で目にしたことがあった。現に「その瞳を持つ光ある公爵家の人間は、いずれ勇気という焔を預かることになるであろう」と、代々伝わる家系が存在する。そう、ナイトレイの敵対家系――ベザリウス家のジャック・ベザリウス。現代において「英雄」と称されるその人もまた、とても美しい緑色の瞳を有していたことは有名な話だ。

けれど、尊ばれる色があるなら蔑まれる色もある。ほんの数百年も昔に遡れば、赤色の瞳は災厄の象徴として排斥の対象になっていた。純粋な赤を宿せば宿すほど、その子供は重い罪を抱えて生まれた証に他ならず、死、もしくは死に順ずる罰をもって罪を排除しなければならないと。

――その時代に、僕は生きているわけではないけれど。

似たようなものだ、とリーオは思う。あの家に一度でも身を置いてしまったら、その瞬間に人より冷たい何かを背負ってしまうことを僕は知ってる。それが何かなんて、もちろん知りはしないけれど。

こうしてエリオットの傍に居ることで、いつか彼に危険が及んでしまうかもしれないことも理解しているつもりだった。それでもこうして隣に居るのは、僕の独りよがりというより、エリオットがそれでも構わないと言ってくれたからだ。

「……あの、お兄さんは、眼鏡なんですね。目、お悪いんですか?」ふと、少女が問い掛ける。
「んー、僕は、自分の目があまり好きじゃないからね」少し困ったように、リーオは答えた。

昔から、この瞳を通して視る世界がとても嫌いだった。この色は、僕や、僕に関わるすべてに真っ当なものをもたらしはしないと知っているから。

それなのに最近少しだけ、世界をもう一度真っ直ぐに視てみたいような気がして、そんな自分が嫌になる。古来、原罪の象徴と言われた色を持つこの瞳は、どうせ何一つ、有益なものをもたらしてくれはしないのに。

「……あの、何があったのか、わたしには分かりませんけれど」

リーオの自虐的な思考を遮るように、少女がふいにゆったりと口を開く。不思議そうな表情をしたリーオの傍らで、エリオットは内心溜め息をついて佇んでいた。

「わたしは……どんな色でも綺麗だって、思います。……とても」
「……そう、かな」

面食らったように、リーオは答える。

「はい。……瞳の色って、ひとつの風景みたいだなっていつも思うんです。赤色や青色は花、緑色は風。空色の瞳もあれば、藍色の夜みたいな瞳の人もいるから。だから、劣っている色なんてないんです。……この世界の、きっとどこにも」

なんて、お母さんの受け売りなんですけどね。そう控えめに笑った少女の瞳は、夜闇のせいか先ほどよりも藍色がかって見えた。笑顔の裏側にとても哀しそうな表情が見えたのは、きっと気のせいではないけれど。

「……あ、そろそろ帰らないと。もうこんな時間……」

何気なく腕時計に視線を落として、少女は少しばかり焦ったような面持ちになる。夜の帳が落ちたこの時刻は、通常ならば夕食時だから、たしかに帰宅としては少々遅い時刻と言っても良い。

顔を上げて、去り際に少女はエリオットへ向き直る。

「すみません、今日は助けていただいてありがとうございました。わたし、この街に来るのは今日が初めてで……。いつかまたお会い出来たら、嬉しいです」
「ああ、気をつけて帰るんだぞ」
「はい!それでは、失礼します」

もう一度にこりと笑って、少女はそのまま去って行く。今日は、随分と嵐のような出会いが続く。そんなことをぼんやり考えながら、二人はそれぞれに先ほどの少女の言葉を反芻させる。

エリオットにとって、「色」と言うのは昔からあまり意味を持たないものだった。髪の色がどうだとか、瞳の色がどうだとか、そんなものは努力をしない人間が手軽に名誉を手に入れるための戯言に過ぎないと思っていたし、むしろ、そのために落とされる人間がことさら不平等だとも思えた。

万事がそんなふうだったから、リーオに以前見た文献の話を聞いたときもそれほど大した感想は抱けなかった。唯一ベザリウス家が持ち上げられていることには怒りにも似た感情が伴ったけれど、リーオが気にするような些細なことなど、エリオットにとっては何ら問題にはならないものだ。先ほどの少女の言葉は至極真っ当だと思えたし、そんなことで全てが決まる世の中でもない。

一方のリーオは、先ほどの少女の言葉をある種の驚きをもって受け止めていた。現代は現代なのだし、蔑視されているだとか、そんな理不尽を感じたことはもちろん無い。けれどどこか疎ましいものだという認識は常に持ち合わせていたから、彼女が赤色を「花」と称したことには少しだけ驚いた。

「気にしてるのか、さっきのこと」
「んー、何の話?」
「リーオ、おまえはおまえだ。誰が何と言おうと、それは変わらない」
「……うん。大丈夫、別に気にしてないよ。ちょっとびっくりしただけだから」

言葉を選んでいるふうのエリオットに、リーオは苦笑して一言返す。

口下手ゆえにいつもエリオットの言葉は直接的か、もしくはとても遠回しだった。けれど、彼なりにリーオを気遣ってくれているのだろうことは伝わって来るから、どうしたって邪険にすることは出来そうにない。時には散々なことを言ってはぐらかしてしまうこともあるけれど、大抵それはリーオなりの照れ隠しに過ぎないし、たぶん、それだってエリオットにはお見通しなのだろうなと思ってもいる。

「さて、僕たちも行こうか?……あれでいいよね、見た目ちょっと古そうだけど」
「休める場所ならどこでも構わねぇ。……慣れないことをすると疲れる」
「今日は朝から一日歩き通しだったしねー。こんなことになるなら、やっぱり朝は馬車にしておくべきだったんじゃない?」

茶化すように笑ったリーオに「今更それかよ」と肩を落として、二人は近くの宿へと入る。こうなると、目的も忘れてつい旅行気分に浸ってしまいそうだ。そんなことを思いながら、リーオはエリオットの隣を歩く。「雨に降られなかったんだから問題ねぇよ」なんて、強がりにも似た言葉を呟くエリオットを、ひどく愛おしそうに見つめながら。

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