「さて、と……どうしようかな、僕は」
周囲に響かない程度の声で呟いて、リーオはささやかな溜め息をついた。あてもなく歩いてはみるけれど、声を掛けた数人の人々は何も知らないと話すばかりで進展は無い。下町の人間と話すのは貴族社会でのそれより疲れはしないけれど、元々あまり人付き合いが好きなほうではないから、長時間に渡るやり取りはその身になかなか堪えるものがあった。
人酔いを感じて、何となく一本道を外れてみる。商店街はあれほどの活気があるのに、裏通りに入れば閑散としてどこか物寂しい。まばらな人並みに乗って、歩く。歩いてくうち、どこか見なれた人影がリーオの前方に捉えられた。
「あれは……」
直接的な関わりはそれほど多いとは言えないけれど、知っていると言えばよく知っている。水色の髪を特徴とした物静かなその少女は、自分というものをあまり持っていないようだった。
「エコー?」
「……?」
リーオの呼びかけに振り向いたその少女は、青色のひらひらとしたいつもの服装に身を包み、敵意の含まれた表情で彼を見やった。反射的に携えたナイフが夕刻にきらりと光って、どこか危なげな色を醸し出している。
「あなたは、ナイトレイの」
一瞬の緊張が張り詰めて、それは少女の方からすぐに解かれた。どうやらリーオを見知った人間であると判断したらしい。携えたナイフを流れるように袖口に仕舞い込み、相変わらず周囲に警戒しながらリーオの方へ近付いてくる彼女は、それでも、眉ひとつ変わらず無表情だった。
「君がこんなところにいるなんて珍しいね。街中に出てくる用事なんてあまり無い気がするんだけど」
「エコーはヴィンセント様の遣いです。ギルバート様へのお届け者を預かったので届けにきました。」
「ああ、そっか。お義兄さんはこのあたりに住んでるんだっけ」
言われて、納得したようにリーオはぽん、と手を打った。エリオットの義兄であるギルバートは、ちょうどリーオと入れ替わりでナイトレイ家を出たと聞く。当人とはそれなりに交流もあるリーオだけれど、込み入った事情を尋ねたりはしたことがないから、詳しいことはあまり知らない。エリオットもギルバートやヴィンセントと交流を持つことが最低限しか許されていないようなものだったから、彼らの過去に何があり、どういう経緯でナイトレイ家に養子とされたのかは未だによく知らないようだった。
ただ、彼らの――とりわけヴィンセントのギルバートに対する振る舞いは、兄弟愛を超えた、少し危ういもののようにリーオには思えていた。ヴィンセントのギルバートへの偏愛は至るところで有名だ。彼の原動力は何よりも兄への思いが第一であり、そのためには何の犠牲も厭わない。極端に言えば彼は、兄さえ無事であればそれで構わないと考えているのだろう。
初めて顔を合わせた頃から、リーオは彼が苦手だった。しかしその一端には、決して狂気に対してだけではない明確な理由がある。
――彼の兄を想うその気持ちが、リーオにはよく分かるからだ。
いわば同属嫌悪。兄弟愛とは形を違っているけれど、リーオの心の中に、間違いなく彼の盲目さと同種のものが浮かんでいることに気が付いてしまっているから。
「……リーオ様?」
「君ってさ、お義兄さんにはいつから仕えてるんだっけ?」
「エコーですか。エコーがお仕えしているのは、ヴィンセント様がナイトレイ家に来られてからずっとですが。それがどうかしましたか?」
「それって、君が好きでやってること?」
「……好きで?いいえ、エコーはそのようなことを考えたことはありません。好きか嫌いかなど、エコーに求められているとは思えません。仕えるべきだと判断されればエコーは命をかけてお仕えする。必要が無ければ捨てられる。……それだけですから。」
ですから、ヴィンセント様に個人的な感想は特にありません。当然のように言い切って、エコーは訝しげな表情でリーオを見やる。自らの世界に囚われるばかりの瞳。
――それを見てふと、同じだ、と思う。あの家で過ごしていた頃は、リーオにとって、他人など自分以外にただ存在するだけの空虚なものに過ぎなかった。それどころか彼は自分のことにすら大して興味を抱きはしなかったし、ただ、同じ世界から本の中に広がる未知の世界の道筋を追うだけの日々が続いた。
何かを大切にする意義を見出せなかったし、世界に目を向けることも、自分という小さな世界を見つめられることも鬱陶しいだけだと思えた。外に向かえばこれほど色々な世界が広がっていると言うのに、関わりなど必要ないと思えたのは、幼子の強がりでも何でもなく、ただただそれが真実だと信じていたからだ。
「君の生き方を見てると昔の僕を思い出すよ。……いつか君も、本当に信頼出来る人に出会えるといいね」
「……どういう意味ですか?」
「んー、たぶん、そのうち分かるよ」
「はぁ……」
穏やかに告げたリーオの言葉に、エコーはひどく不審そうな表情で嘆きにも似た一文を返す。
今が幸せか、と問われれば、間違いなく幸せだと答える自信がリーオにはあった。盲目的に他者を拒絶していたあの頃から見ても、今は盲目的にただ一人を想いすぎてしまっているだけに過ぎないと知ってはいるけれど。それでも、そのたった一人が世界をこんなにも明るく、広大なものなのだと認識させてくれたことは、やっぱり事実だったから。
「立ち止まらせてごめん、帰らないといけないよね?」
「仲間との融和。それも任務のうちと、ヴィンセント様が仰っていましたので構いません。ですが……」
「ん?」
「……エコーは分かりません。あなたの言うことは理解出来ません。従者は従者でしかないのに、何故あなたはそうもエリオット様に対して敬意の無い振る舞いをするのですか?」
「それはエリオットがナイトレイ家の人間なのにどうして、っていう質問かな」
「そうです。エコーはこの家で教わりました。主人と従者は絶対であると。主人に付き従うことは幸せであると。本当に役に立たない人間は使用人になどなれません。……ですから、エコーは幸福であると。」
どこか機械的に紡がれる言葉は、やはり彼女が自分の世界だと思い込んでいるだけの「他人の世界」だった。他人の幸福の観点が当人の幸福になるとは限らないことを、彼女は知らない。生まれた時からナイトレイ家に身を置くという彼女は、おそらくこの家に都合の良いように教育されているのだろう。
可哀想というよりは、良かった、と思ってしまう自分に、リーオはひどく複雑な思いを抱く。もしもエリオットが彼女と同じように与えられた「世界」に何の疑問も持たずにいれば、今頃リーオ自身も彼女と同じ、縛られた小さな世界から抜け出せずにいたのだろうから。
「ん……じゃあ、僕からも質問して構わない?」リーオは言って、エコーを見据える。「何ですか?」少し怖じたように答えたエコーへ、リーオは一言こう返した。
「君自身は、幸せなの?」
投げ掛けられたひどく単調な一文に、二人の間に一瞬の間が空く。予想外の問い掛けに心底戸惑ったような顔をして、エコーはふい、と視線を逸らした。
「……それは、どういう」
「そのままの意味だよ。僕は幸福でも不幸でもなかったと思うけど、たぶん、冗談でも幸せとは言えなかったかな。そういうこと」
まるで謎かけのようなリーオの言葉に、エコーは反論しようとして、止めた。ちょうど上手く言い表せるような言葉を持っていなかったのだ。
自分が幸福であるかなど、今まで真剣に考えたことも無かった。そもそも、そんなことを考える必要も無いと思えた。だって、誰かがお前は幸せなのだと言うのならたぶん、自分はその人間が言うように「幸せ」なのだろう。そう信じて生きてきたし、幸福の定義がよく分からないのだから、やっぱりそれが真実なのだと思うしかない。他の答えなんて、ただのひとつも知るはずはないではないか。
「……きっと分かるよ。いつかは分からないけど、きっと、ね」
それじゃあ、引き止めてごめんね。僕は行くから。戸惑い止まないエコーに軽い調子で微笑んで、リーオは来た道を引き返す。話し込んでいるうちに、気付けば約束の時間が迫っていた。自分から提案しておいて約束を破ったりしたら、おそらくエリオットに大目玉を食らうだろう。
「……早く会いたいな」
あれほど離れることなく過ごしていると言うのに、少し離れると妙にエリオットの面影が恋しくなる。自分から離れようと言っておきながら、まったく矛盾もいいところだけれど。
心の中で溜め息をついて、リーオは曲がり角を右に曲がる。商店街の喧騒に飲み込まれていきながら、彼は、少し機嫌良さそうににこりと笑んだ。
「幸せ……エコーには、そんなもの……。」
リーオの立ち去った裏通りで、エコーはしばし動けずにそこに居た。同じ立場の彼は、同じ立場のエコーにあまりにも不可解な言葉を残して去って行ったから、すぐにそこから歩み出す気分にもなれなかった。
エコーは言わば身内である彼のことをそれほどよくは知らなかったけれど、いつだったかヴィンセントがたまたま見かけたリーオについて、随分と意味深なことを言っていたことだけはエコーもよく覚えている。
――彼は、僕と少し似ているかもね。
主人に問い返す権利を有さないと自負する彼女はそのとき、ヴィンセントの言葉に取り立てて疑問を投げ掛けることはしなかった。けれど、その言葉の意図を量りかねたことは紛れもない事実だ。
エコーの知る範囲でリーオはヴィンセントのように残忍ではなかったし、また、内向的でもないように見受けられた。今日に至るまでその認識は変わってはいないし、実際に対面しても、特に狂気らしいものを感じたことはない。それなのに、彼女の主人はたしかに自分と彼が似ていると言い切ったのだ。
――分からない。エコーには、何も。
知る必要は無い、と思うのに、先ほどのリーオの言葉が離れてくれない。けれど幸福の定義など、わざわざ知る必要はないではないか。自分が幸福であろうと不幸であろうと、自らが従者であるという現実には何の変化も無い。自分に求められているのはそんな曖昧に取り繕われる感情などではなくて、従順に任務を遂行する主人の手足なのだ。彼のように隣を歩くだけで許容される存在は、エコーにはどうしても理解出来ないものだった。
「……反響音で、しか。」
――結局、はねっ返りの音でしかない自分には、分からない。
思考を拒絶すれば、それを後押しするように「考えるな」と、脳裏で囁く声が聞こえる。考える必要は無い。知ることの出来る日を望む必要は無い。ただただ慎ましい人形で在れば良いと言った、いつかの主人の言葉が蘇る。
『君は僕の人形だからさ。大切にするけど、僕に歯向かうなら捨てちゃうよ?』
逆らう気など初めから無かったから、一般的には恫喝と呼ばれるべきそれも、エコーにとっては何の疑問の種にもなりはしなかった。それでいい。今までも、これからも。忘れてしまえばいい。期待されているのは、ただただ従順な反響音なのだから。
そう思って、エコーは振り払うように主人の待つ屋敷へと走り出す。リーオの言う「いつか」が来たとして、きっと何かが変わるわけでもない。起こり得るはずのない仮定を持ち出したって、それが誰かのためになるわけでもない。そう、まるで自分に言い聞かせるかのように、雑音の嘲笑を響かせながら。