Dear blue-12-

「しかし、あの男も滅多なことをしでかす男ですネ。あんなのに仕官する君の心中は全く、察して余りあるものがありますヨ」

パンドラの片隅に位置する執務室。事件の後始末とばかりにブレイクが訪れたそこで、厳しい表情を浮かべたレイムが二人の帰還を待っていた。主人の命を遂行することは当家に仕える者として当然の義務ではあるけれど、今回のそれは、レイムにとって少々疑問を抱かざるを得ないものだった。

「ねぇレイムさん。昔馴染みのよしみでナイトレイ公爵の機密文書、漏らしてくれたりしませんよネ?」
「当たり前だろう。冗談を言っている暇があったら残していった仕事の一つや二つを片付けろ」
「エー?やだナー、ワタシはたった今働き終えて来たところじゃないですカ。レイムさんがワタシの分もお仕事代わってくれるって言うから行ってあげたのに、そんなのって酷いと思いません?」
「……様子が気になるからといって勝手に飛び出して行ったのはどこのどいつだ。それに引き受けると言った覚えは一切、断じて無い!」
「……冗談ですヨ。すぐカリカリしてるとハゲますよ?全く……」

溜め息をついたブレイクにより深い溜め息を返して、レイムは朝方受け取った親書の意味を考える。中身を見ることはもちろん許されてはいないけれど、少なくとも、ナイトレイ公爵とルーファス様の間でエリオット様の処遇について何らかの結論が出されたのは事実だ。

けれど、危険が伴うことを分かっていながら、あえてそうする意味は何なのだろう。ルーファス様がわざわざ彼らをどうこうしたがるとは思えないから、この命を出しているのは必然的にナイトレイ公爵ということになる。大切な子息を直接危険の種に晒して、伝えたいことでもあると言うのだろうか。まさか。それにしてはリスクが高すぎる。

「……もしかしてですケドレイムさん、公爵のこと疑ってたりします?」
「いや……そんなことは、別に……」
「あながち間違っていないかもしれませんヨ。あの家の人間は何をしでかすか分かりませんから」

少しの嘲笑を交えながら、ブレイクは心の中で表しがたい不快感を抱く。あの家の人間は皆、それぞれが少し普通ではない。歯車の狂った世界の中で今更何が起きようと、疑問など何一つ無いのだ。

たとえるなら今ここでナイトレイ公爵がエリオット=ナイトレイを事故に乗じて始末してしまおうと考えていたとしても、それが有り得ない話ではないと思えてしまうほど。レイムが文書を盗み見ずに仲介役をまっとうしていることなど分かりきっているから、今回の真相を知り得ることはおそらく無い。それでも、この仮説はあながち間違っていないように思えてならなかった。

「――レイム!」
「おや?」

各々の思考に入りかけていたところで、執務室の扉が音を立てて開く。
――噂をすれば。

「どういうつもりだ。危険は無いと言っておきながら……あのチェインが攻撃的な奴じゃなかったから良いようなものの、今頃オレもリーオも死んでたかもしれねぇんだぞ!?」
「おやおや……どうしましょうね、レイムさん?」

現れたエリオットにひらひらと袖口を振りながら、あらゆるものを茶化すようにブレイクはくすりと笑った。おそらく表向きはバルマ公からの密命なのであろう今回の二人への依頼は、結果的に二人が難を逃れる形で終わったが、場合によっては最悪の事態になっていた可能性も否定出来ない。

それがバルマ公のみならず、かのナイトレイ公爵も交えた陰謀であったと知ったなら、この誇り高き嫡子は一体何をしでかすだろう。そんなことが少しばかり気に掛かったけれど、レイムに睨まれてそれきり、ブレイクは分かりましたと押し黙る。

「それじゃあ、ワタシはこれで。ギルバート君を待たせているのでね。レイムさん、報告書の件は頼みましたヨ」
「ああ、任せておけ」

にこにこと人の悪い笑みを浮かべて部屋をあとにするブレイクを見届けてのち、残された三人はほんの僅かに黙り込む。ばつの悪そうな表情で手元の机に影を落とすレイムに、対するエリオットは怒り冷めやらないと言った様子で静かに肩を震わせた。

「何とか言ったらどうなんだ、レイム。パンドラは何の配慮も無くチェインに一般人を差し向けるような組織だってのか!」
「それは……」
「……エリオット、ミスター・ルネットはただ……」
「おまえは黙ってろ!」

これがレイムの独断でないことくらい、エリオットにだって分かっているつもりだった。けれど、やり場の無い怒りがどうしても治まってはくれないのだ。腹立たしいのは別に、レイムに対してだけと言うわけではない。どうしようもないと分かっていながら無力な自分に腹を立て、少しずつ歪んでしまった不幸さを持ち前の正義感が嘆く。

それが底抜けの優しさから来るものだと言うことに気付いているのはたぶん、傍らのリーオくらいのものなのだろう。本人はいつだって真っ直ぐに進んでいくけれど、彼自身はそれが当たり前のことだと思っているし、いつも至らないところばかりを見つけて悔しさに嘆くから。

「それに、危険な目に遭ったか遭ってないか、それだけじゃねぇんだよ……」
「エリオット……?」

ひどく神妙な面持ちのエリオットに、リーオは意図が分からないといったふうでその名を呼んだ。リーオはまさか自身が理由であるとは思いもしなかったけれど、その実この時のエリオットにとって、リーオのことは死の危険と同列に迫る気がかりだったのだ。

リーオが自身の過去をそれほど取り沙汰しないことは、エリオットとて十分承知していた。チェインによって自らの人生がまったく異なったものに変わってしまったことだって、さして気にしていないと答えたのは、リーオの中での正直な気持ちなのだろう。

けれどそれでも、リーオは遺法契約者に関わる事柄に対して根本的に良い顔をしない。本人にそれをわざわざ告げたことは無いが、気にしていないと語るそれが紛れもなく本心だと信じられるのに、時折、何かを思い出したかのようにひどく苦しげな顔をすることがリーオにはあった。何かに抗うようなそれは何か言い知れない不安を呼び起こさせるものだったから、出来るなら、実際のものに触れさせることはしたくなかったと言うのに。

それきり言葉を切ったエリオットに、レイムはただ「申し訳ありません」と深々と頭を垂れる。
――つかの間、ひらり、と何かが舞った。

「いけない、写真が……」
「ん……ミスター・ルネット。それは?」
「ああ、すみません。昨日お話しした違法契約者だそうです。彼女は夫を助けたかったとか……」

落としてしまった写真を拾い上げて、レイムは寂しげな表情でリーオへとそれを差し出した。裏返しになっていた写真を、軽い気持ちで表に返す。瞬間――時が止まったかのような、静寂。

「――っ、何だってんだよ!」
「エリオット!」

写真を確認してすぐ、バン、と音を立てて、エリオットが部屋を飛び出す。写真に写されていたのは、とても幸せそうな三人家族。互いを思い、家族を思い、ただもう一度だけ、幸せになりたかった母娘の笑顔。

そこには強く凛とした翡翠が、とても、とても美しく吹き抜けていた。

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