Dear blue-13-

部屋を出てしまったエリオットの後を追って、リーオがたどり着いたのはレベイユの閑散とした小道だった。青々と茂る木々の木陰に寄りかかって沈痛な面持ちのエリオットは、様々な感情がない交ぜになって、自分に折り合いが付けられずにいるように見える。

「……エリオットらしくないね、話の途中で飛び出すなんて」
「うるせぇ、放っとけ」
「駄目だよ。目を離したら君、何するか分かんないし」

「そうでしょ?」控えめに笑いながらそう言って、リーオはエリオットから少し離れた場所へと背を預ける。パンドラへ戻ったら、まずはミスター・ルネットに詳しい説明をして謝らなくちゃ。そんなことを僅かな時間で考えて、穏やかに、エリオットが話し出すのをただ待った。

降り続いた冷たい雨は上がったけれど、まだ街が活気付く時間にはほど遠い。しんとしたこの空間では、自分たちが黙り込めば風の音しか聞こえない。今日のそれはゆるやかだけれど冷たくて、見上げた青はどこか、心許無い気分にもさせられる。

「……こんなに、救われねぇもんなのか」

違法契約者ってのは。ぽつりと、エリオットが言った。

「……そうだよ。みんな、最初は普通の人間だから」

答えたリーオに、エリオットは複雑な表情だけを返す。誰かのために悲しむことの出来るその優しさは、決してリーオ自身には無いものだった。怒ったり、笑ったり。自分のためにそれをすることはひどく簡単なことだけれど、どうしても、他人にその類の感情が湧くことは少なかったから。だからこそ、リーオにとってエリオットはとても尊い存在なのだ。

「おまえは、本当に大丈夫なのか」
「何、僕の心配?ほんと、人がいいよね、君も。……大丈夫だよ、僕は。……君が、いてくれるから」

消え入りそうにそう言って、切なげな表情でリーオは微笑む。一日のうちに起きた色々なことを思い返して、拾い切れないあれこれを、いっそ捨て去りたい衝動にも駆られるけれど。

エリオットが――君がいてくれるから、大丈夫。その言葉は本心だった。というよりも、毎日を懸命に生きている理由なんてむしろ、それしか無いかもしれないと思えるほどに。

「……ちょっとね、考えたんだ」

静寂を埋め合わせるように、リーオがゆっくりと言葉を紡ぐ。空になった水盆を満たすかのように、まるで壊れ物のように、大切に。

「誰かのためにあんなことをするなんて馬鹿みたいだって、ずっと思ってたけど。……たとえばそれが僕にとってとても大切な、いつも真っ直ぐに突っ走る、怒りっぽい誰かさんだったらどうするだろうって」

もしそうなったなら、そのとき僕は同じことをするんだろうか。それとも、誘惑を振り払って弔うだろうか。物言わぬ少女の安らかな笑みを見ながらそんなことを考えて、分かったことはやっぱり、僕はそんなに優しい人間じゃないってことだけだった。

「考えて、僕に出せた答えはひとつだけだった。……それはね、たとえどれを選んでも、それは決して誰かのためなんかじゃないってこと」
「誰かのためじゃない……?」
「うん。たとえば君を救いたいとチェインに願っても、それは僕の勝手な願望でしかない。諦めて弔ってあげようと思っても、それは僕の独りよがりでしかないってこと。結局死んでしまった人間に生きている人間が出来ることなんて、そんなに多くはないのかもね」

どんなに美しい理由を持っていても罪が罪でしかないように、あの少女や母親もまた、道を踏み外して自らが招いた末路だと。そう思うのにひどく重く軋む心は、それでもやはり、自分にはふさわしくないものだとリーオは思う。

泣いても、嘆いても安っぽくならない感傷は、エリオットくらいの優しさを持ち合わせていなければ生み出すことは叶わない。だからせめて誰よりも、その心を守っていたいとリーオは願う。そう思うことさえ、独りよがりかもしれなくたって構わないから。

その心を失うことだけが怖かった。いつも、いつだって、その心を守れるのなら、きっと自分の存在すら捧げることも出来ると思えた。だけれど傍に居られるのなら、いつも傍で見届けていたい。矛盾をどうしようもないくらい、引き返すことも出来ないくらい、リーオにとってエリオットが愛おしい存在になってしまっていることを、今更後悔だって出来やしない。

「……けど、あの母親はたしかにあの娘のことを想っていた。もう少し時期が早ければ、それはあいつにとってたしかに救いになってたんじゃねぇのか」
「……エリオット」
「すれ違ってしまうことはあるだろう。おまえの言うとおり、何をしたってそいつの勝手にしかならねぇこともある。……けど、オレはそればかりが全てだとは思わねぇ」

リーオの言葉を覆すように、エリオットは語る。その瞳に少しずついつもの光が戻って来ているような気がして、リーオはどこか欠けたような気分のままでほっとした。

少し浮上した意識で、対するエリオットはリーオを不安げに見やる。現実主義的ではあるけれど、リーオは日頃からあまり悲観的なほうではない。それが今はどうにも落ち込んでいるふうなのが気になって、けれどそれを切り出せずにいる。

本人はおそらくそれに気付いていないのだろう。いつだって自己分析するふりをして、結局それが自分の在り方を狭めているだけなのだと、一体どうすれば伝えられるのかを毎度悩んで答えが出ない。

――聞かれなければ隠してしまって答えない。その気持ちが分からないわけではない。基本的にエリオットとリーオはお互いを似通っていると思うことは無かったけれど、こんなところだけは、数少ない共通点だと認識していた。意地を張りがちで衝突が多いのにもかかわらず、肝心なこと――とりわけ相手を傷つけてしまうかもしれないような事柄は、どうしても素直に伝えることが出来ずにいたりする。

「リーオ」
「……うん、何?」

意を決して、エリオットは口を開く。聞きたいことは、ふたつだけあった。

「おまえから見て、オレはどんな人間だと思う?」
「……エリオットが?」

まるで予想外だった、とでも言いたげな表情で、リーオは少しばかり戸惑った様子を見せる。それから思い直したように、壁に背を預けたままでこう答えた。

「ん……君はとても頑固だし、人の話も聞かないし、すぐに怒るところは僕と似てる。……でも、とても強くて優しい人だと思うよ。……本当に」

僕とは違って、と。そこまでを口にはしなかったけれど、どうやら含みはエリオットに伝わったようだった。どこか複雑な表情で受け止められたそれは、「そうか」とだけ返されて、そこからまた少しの沈黙。

昨日から一日の間に、いったいもうどれほどの沈黙を迎えてきただろう。リーオがエリオットの従者になってもう随分長いこと経つけれど、これほど黙り込む時間の長い一日は初めてかもしれないと思えた。お互いのことを考えれば考えるほど、気の利いた言葉も、上手い台詞も何一つ浮かばなくなってしまう。もちろん今更飾り立てた言葉を交し合う間柄でもないけれど、どうしてだか、改まると言葉を選んでしまう各々がもどかしかった。

「……もうひとつ、聞いてもいいか?」
「いいよ。……なに?」
「あー……笑うなよ。……おまえ、何でオレの従者になったんだ?」
「え……?」

落とされたエリオットの言葉に、間の抜けたような調子でリーオは返した。笑いどころすら分からなくて、どういう意味、と問い掛けてみる。

「おまえ、一度は断っただろう。あれ、本気だったんだろ?」
「あれは……うん、まあ、本気と言えば本気だったけど……」

誰かに仕える自分を想像出来なかったから。それから、エリオットが傷つく未来に戸惑ったから。

「正直、今でもおまえを従者にしたのが正しかったのかは分からねぇ。ナイトレイ家の問題に巻き込んじまったし、姉さんも……あまりおまえにはいい顔しないだろ。オレの勝手でおまえを辛い目に遭わせてるんじゃないかとも思う」

真っ直ぐにそう語るエリオットは、重々しい表情で視線を流す。答えを聞くことを躊躇っているような。
――だけれどそんな、些細なこと。

「……そんなこと、全然気にしてないのに。ナイトレイ家の問題に巻き込まれるのは、僕もナイトレイ家の一員になったんだから仕方ないことでしょ?」
「それはまあ、そうかもしれないけどな……」
「お姉さんのことも、気にしてないよ。あの家にとって、本当は僕のほうが場違いなんだってことは分かってるつもりだから。……それでも僕がわざわざ君の従者を続けてるのは、危なっかしい誰かさんの傍にいたいと思うから。……それじゃ理由にならない?」

楽な道を選ぶなら、お互いに離れた方が楽なことを知りすぎるくらいに知っている。苦労しているだなんてきっと、僕なんかよりエリオットのほうがずっとだろうと言うことも。だからあの日それを承知で、あえて僕の手を取った理由が分からなくて戸惑っているのに。

「誰が危なっかしいだ。……けど、ああ。それだけ聞ければ十分だ」

ひとり納得したように笑うエリオットは、一日ぶりに目にする彼らしい表情をしていた。ああ、やっぱりエリオットはこうして笑っている方がずっといい。そんなことを考えながら、それでも、対するリーオの内心はさっぱり晴れてくれそうにない。

――今しかない、と思う。聞いてしまうのなら今しかない。自分でも何を恐れているのかよく分からないままで、ちっぽけな何かを守りたいと、それでもまだ思ってしまうけれど。

「……エリオット。僕もひとつ、質問」
「ん、……何だ?」
「君と同じ質問、するけど。……何で僕を選んだの?君くらいなら、従者になってくれそうな人間なんていくらでもいたでしょ。……そう言えばずっと、ちゃんと聞いたこと、無かったから」

言ってしまってから、口をつぐんでリーオはエリオットの様子を窺う。どこかぽかんとしたようなふうを一瞬見せて、エリオットはさもおかしそうに少し笑った。

「……もしかしておまえ、それで最近考え込んだりしてたのか?」
「……そうだよ、悪い?」

正確には決してそれだけではないけれど、大半と言えば大半だ。半ば開き直って、拗ねたようにリーオは言い切る。それに安堵したような笑みを浮かべて、エリオットはかつての自分を語り始める。

「おまえと会う前からずっと、従者を付けろという話はあったんだ。特に姉さんは焦っていたな。従者の候補だと言っては見知った名前の載ったリストを持って来て、何ヶ月にも渡ってなるべく早くとオレを急かした」
「……じゃあそれ、僕と会う前までは全部断ってたってこと?ほんと、エリオットらしいや。それだけ続けば妥協するもんだと思うけどね、普通」
「……従者になっても腹の探り合いをするような奴を隣に置いておくのは嫌だったんだよ。どいつもこいつもナイトレイ家の地位が目当ての、目先の利益が無くなればすぐにでも敵になりかねない人間ばかりだったからな」
「……それじゃあ、生まれも育ちもよく分からない僕を従者に選んだのは?」

自嘲を交えて問いを投げ掛けるリーオに、エリオットは苦笑する。苦笑して、さも当然のように答えを返した。

「おまえは……そうだな。他の奴らとは違って、オレ自身を見てくれた。ナイトレイ家の嫡子だからとか、そういうものにこだわり無く、だ。……まあ、最初のアレが誰か他の奴に取った態度だったら、今頃おまえの処遇もどうなってたかは知らねぇけどな……」

従者になるどころか、あの施設にすら居られなくなっていた可能性も無いとは言えない。実際、あの態度にはエリオットも随分カチンと来たものだ。今では既に懐かしい記憶になりつつあるそれも、思い起こせばすぐ昨日のことのように情景が浮かぶ。

「とにかく、オレの傍に置くならおまえしか居ないと思ったからだ。それ以上細かい理由はねぇよ」
「はあ……何それ。ほんっと、エリオットってバカだよね!簡単そうに言うけど、それがどれだけ難しいことかって考えなかったの?」
「リーオ、おまえな!オレがどれだけの覚悟で――」
「冗談だって。……ありがとう。うん。ちゃんと、分かったから」

ほっとしたのか、力が抜けたようにリーオは笑う。今度は曖昧なそれではなくて、とても幸せに満ちた笑顔だった。難しいことばかり抱えていても、結局のところは単純だ。リーオは思う。全てが解決したわけでもないのに、エリオットのたった一言で、こうまで引き上げられてしまう自分に少し呆れもするけれど。

「ああ、エリオット様。こちらにいらっしゃいましたか」
「……レイム?」

ようやく二人の雰囲気が落ち着いたところで、パンドラの方から見慣れた人物が歩いて来るのが見えた。ようやく見つけた、と話すその様子からすると、随分彼らを探し回っていたのだろう。

「……済まない、さっきは言い過ぎた」
「いいえ、構いません。エリオット様を危険な目に遭わせてしまったことは事実ですから」

控えめににこりと笑って、レイムはすぐさま几帳面に付けてきたらしい手帳を取り出す。リーオは持ち出したままの写真を何となく隠して、エリオットと二人、彼の言葉に耳を傾けた。

「違法契約者というのはやはり犯罪者ですので、彼女たちに公的な墓を用意してさしあげることは叶いません。……ですが、お二人とも遺体が残っている以上、街外れの小さな花畑に密かに弔うよう手配してあります。もしよろしければ、お時間の許す時にでもお二人で足を運んであげていただけませんか。それほど立派なものではありませんが……お二人がいらっしゃればきっと、彼女たちもお喜びになるでしょうから」

言い終えて、レイムはその場所を記したメモをエリオットへそっと寄越した。レベイユの外れを表しているらしいその場所は、あまり聞き慣れない地名だが、響きがとても美しい。

「……分かった。後日、リーオと必ず向かう」
「是非そうしてさしあげて下さい。……ああ、そうだ。それからもうひとつお渡しするものが」
「ん?」

忘れていた、と少し焦りながら、レイムはポケットから何物かを取り出して荷物の状態を確認する。どうやらどこにも変わりは無いようだとほっとしたような表情を見せて、レイムはメモともうひとつ、エリオットへそれを手渡した。

「……くまのぬいぐるみ?」
「ザークシーズが相手をした今朝の違法契約者の女性が持っていたものだそうです。娘に会えたらこれを渡してくれと頼まれた、と言って持ち帰ってきたのですが……」
「そっか。じゃあ、それはあの子のものなんだね。……お墓になる場所へ行ったら、一緒に置いて来るのがいいのかな」

エリオットの持つくまのぬいぐるみを横から眺めて、リーオは神妙な気分になって溜め息を呑み込む。彼女らはしてはならないことをした。それだけで全てを悪だと割り切ることが出来ないのは、今更ながら人間の難しいところだ。

「ん……なになに、Dear blue daughter……?」
「どうした、リーオ?」
「あ、ううん……この首に結んであるリボン、親愛なる青の娘へ、って刺繍がしてある。……ミスター・ルネット。このぬいぐるみはあの子の母親から?」
「え?ああ、いえ……ザークシーズの話によれば、あの女性の夫……つまりエリオット様たちがお会いになった少女の父親は、毎年娘さんにくまのぬいぐるみをプレゼントしていたそうです。それが今年は娘さんの誕生日を迎える前に亡くなってしまい、用意していたぬいぐるみを渡せないままになってしまった。それをいつか渡せたらと、あの女性が代わりに所持していたそうですよ」

凛として流れるように美しい、少女の母親の姿を思い出す。あの少女は翡翠の瞳を「風」だと言った。母の受け売りだと言ったそれが、あの女性の雰囲気ごとを指し示しているのだとしたら。その意味が、強さが、今ならよく分かるような気がする。

「あ……もしかしてそれって、毎年色が違ったりしたのかな?」
「色、ですか?すみません、そこまでは分かりませんが……」
「……ここに十五個目の色、って書いてある。もしかしてあの子、持っているぬいぐるみの色に合わせてだけ、自由に色を変えられたんじゃないのかな」

それなら父を忘れるどころか、思い出ばかりが強くなって余計に抜け出せなくなってしまう。皮肉にもそれがチェインの狙いの的になってしまったのだろう。思い出の品にチェインの魂が乗り移り、それが失意のうちにある人間を陥れるという話は、伝承の中でも定番だ。

救いは、少女が最後まで有したチェインへ愛情を抱いていたことだろう。自らの間違いにもがき、抗うことも出来ずにいずれ死んでいくよりは、真実を知らずに心を蝕まれていくほうがずっと、ずっと幸せだろうとリーオには思えた。

「ぬいぐるみの色?……じゃあ、あいつが言っていた足りない色、ってのは……」

頷いて、リーオは寂しそうに、エリオットの手に佇むくまのぬいぐるみをちらりと見やる。青緑色に淡く彩られたそれは陽の光に透明感をありありと映して、まるで、ふたつを完璧に溶け合わせてしまったかのような――悲しくも、力強い出で立ちをしていた。

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