Dear blue-5-

「……さて、ようやく追い詰めましたよ」
「時間が掛かったな。被害は?」
「それがねェ、無いんですよ」
「……無い?一人もか?」
「ええ。ココへ来る間も倒れている人間を大体見当付けつつ歩いていましたが、誰も死んではいないと思います。ま、罪人にしてはよく頑張った方でしょう」

残念でしたネ、ルーファス・バルマ。内心に嘲笑を抱えたまま、ブレイクは目の前の違法契約者をじっと見据える。知識欲に侵されたあの人間が何を考えているかなど知ったことではないが、体の良い人体実験など許してなるものか。おおよそ、このチェインに特殊な力があるとでも聞きつけて興味を持ったのだろうが、ナイトレイ公爵家が関わっている以上、この件にはまず間違いなく裏がある。

別にブレイクとしては人間の犠牲自体にはさして興味も無かったが、アヴィスの件について遅れを取るつもりは毛頭無かった。バルマならばまだ掛け合い次第で情報の入手のしようもあるが、ナイトレイ公爵に情報が渡ってしまえばどうにもならない。ましてやあの家には挙動の不可解なヴィンセント=ナイトレイまでもが居座っているのだから、誰の目から見ても圧倒的な不利益だ。

「……さて、時間切れの前にお話しましょうか?哀れな違法契約者サン?」
「ッ、誰、ですか、あなた……は」
「おや、自らチェインの呪縛を解くとは……とんだ精神力の持ち主ですネ、アナタ。……もっとも、それがチェインの暴走を招いてしまったみたいですが」

皮肉めいた口調で話すブレイクの傍らで、ギルバートがふと視線を逸らした。目を背ければ、また「甘い」と皮肉られるだろうか。けれど、それでも構わないと思えるほど、原型を失くしつつある「彼女」の様子は酷かった。

「そうしていると辛いでショ?……壊れてしまえば楽になるのに、そうしようとはしない」

全てを諦めチェインに身体を明け渡せば、正気などすぐに失う。そうすればすぐに感覚は鈍磨するし、痛みだって感じはしない。それが結果的に人間であることを辞める選択になったとしても、壊れてしまえばどうせ、それ自体は本人にとってはさほど重要な事柄ではなくなる。

それでも、この違法契約者は未だ正気を携えている。そうまでして意志を突き通そうとする先には、一体どれほどの理由があると言うのか。さしづめ興味半分、軽蔑半分と言ったところだ。

「ねェ、教えてくださいヨ。……貴女には、どんな望みがあったと言うんですか?」

ぼろぼろになった違法契約者に向かって、ブレイクは救いを差し伸べるでもなく問いかける。しとどに流れる金の髪。まだ爛々と灯る翠の瞳。死を間近にしているとは思えぬほどに、それは、凛としてとても美しかった。

「主人と……娘、を。会わせて、あげたかった。……もう一度。私はどうなっても、良かった。……それだけ」

かすれた声で彼女は続ける。「知っていたわ、駄目なこと、だって……」振り絞るようにそう言って、強く、ひどく穏やかに笑った。

違法契約者。甘言に囚われて、逃れられなくなった者の末路は、全てにおいて悲惨なものでしかあり得ない。それでも運が良ければ、あの闇に堕ちる前に死ぬことが出来る。では、出来なければ? 搾取され、心を乱され、最期は玩具の闇にひとり、沈む。絶望して壊れて、やがて後悔さえもすべて忘れる。

けれどそれは、彼らにとっての唯一の幸福なのかもしれない。忘れることが出来たなら、苦しみもすべて消えてしまうから。――おそらくは、きっと。

「罪を認識しながら非道に走る、ですか。泣かせる話ですねェ……」

皮肉めいた口調を隠さず、ブレイクは言った。過去の自身の愚かさに彼らの姿を重ね合わせるたび、この違法契約者という存在が、まるでとてつもなく醜いもののように見えてくる。それなのに、同時にそれを尊びたくなってしまう自分に、ブレイクはこの上ない苛立ちを覚えた。

だって、とても人間らしいではないか。自分の望むもののために、たとえそれが地獄への道だと分かっていてさえも縋る。未知の力に頼れば何かが変わるのではないだろうかと、ありもしない幻想に揺られて、どうせロクなものなんて、何一つ残りはしないのに。

――ロクなもの。いや、本当は、ある。ひとつ、ふたつ。その程度、ではあるけれど。

でもね、そんなの稀なんですよ。心の中で呟いて、ブレイクは自嘲を止めない。運が良かっただけ。そう、あのときの出逢いなんて偶然に過ぎない、ある意味奇跡みたいなものなのだ。普通なら、何も残らず死んでいた可能性の方がよっぽど高い。

「……後悔、して、たの。ずっと……あの日。会わせて、あげられなかった、こと……あの子……ッう」

それだけ言って、彼女は苦しげに呻いた。咄嗟にギルバートが銃を構える。

「……よしなさい。そんなものを突き出したところで、もう何の意味も無い」
「だが……!」
「暴れすぎたんでしょう。もう人間ひとり殺す元気も残ってませんヨ。この女性にも……チェインにもね」

言われて、ギルバートは大人しく振り上げたそれを下ろした。ブレイクの呟いたそれは、暗に死の宣告だった。放っておけばじきに死ぬ。だから何もせずに放っておけと、そう、言っているようなものだ。――どうせ、こうなってしまっては助ける道など無いけれど。

「写真、が……」
「ん?」
「写真が、あるの。一枚、だけ……。三人で撮った……。あの子と私、と、あと……。あの写真、みたい、また……」

居られたら、良かったのに。微笑みながら涙する、陽も当たらない路地裏にさえ、彼女の姿はよく映える。いつかの一瞬が異なれば、こんな末路など迎えず、幸福な生き方だって出来ただろう。強すぎたのだ。彼女はおそらく、何もかもに囚われた。

責任感に苛まれれば、人は驚くほど簡単に潰れてしまう。娘を、夫を愛するがあまり、彼女は越えてはならない一線を越えた。別に、同情するつもりはない。それは、紛れもなく甘えでもあるからだ。

「かはッ!」

彼女が咳き込んで、暗い影に赤色が落ちる。限界だ。アヴィスに堕ちずに死んでいく人間を見るのは何時ぶりだろうか。チェインを――自らの罪を押さえ込んで朽ちる。そんな意志の持ち主など、世界にそうは居ない。――自分のような、不当に生きる愚かな存在を除けば。

「……限界、みたいですネ」
「ええ。……そう、みたい」
「ひとつだけならお望み、聞きますヨ。ありがたいことに、貴女の頑張りで死者も出ませんでしたから。……ちょっとしたご褒美デス」

傍らで驚いた風のギルバートも、ブレイクの含みに気づいたのかすぐに表情を戻した。そして、今度ばかりは彼女の姿から視線を逸らさない。罪人でありながら、ここまで潔い人間には敬意を表すことすら出来そうだ。――たとえ、それが永遠に表立ったものにはならなくとも。

「娘に、……あったら、渡して。毎年、あの人……最後の。それで、あの子、……に、……」

声が、消え行く。やがて途切れて、満ちる静寂。

「貴女の頑張りは無駄にはなりませんよ。……少なくとも、生き残った人間には未来がある」

だから安心してお眠りなさい。全てを言い切ることが出来ないままで、女性は眠るように息を引き取った。光の無い路地裏。そこに残る金色だけが、一点に差し込んだ陽だまりにさらさらと揺れている。

「……可愛らしいぬいぐるみですねェ。母親の愛とは、計り知れませんヨ。……本当に」

投げ込まれた小さなくまのぬいぐるみを抱えて、ブレイクはぽつりと言った。――彼女の涙が残り香のように一粒、暗闇の中へぽたりと落ちた。

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