薄命なプラナス-3-

脇目も振らずにひた走って、たどり着いたのは例の幻想郷への入り口だった。少ししてリーオへ追いついたエリオットも、一度その前に立ち尽くす。

(……また、ここなんだ)

内心で呟いて、リーオはそこへ飛び入る決心を固める。ここには本当に良い思い出が無い。何しろあの時も子供が迷い込んで、最後にはあの有様だ。エリオットにはあの時見たもの何一つを告げてはいないから、彼はまだ大丈夫だろうけれど。

それでも、保身よりもずっと、迷い込んだかもしれない子供のことが気がかりだった。あの家に暮らす者は皆、家族だ。どんなに共に過ごした時間が短くたって、家族を思わずにはいられない。この近しさは孤独に寄り集まった身だからというのもあるのだろうけれど、それでもこの気持ちはたぶん、本当の家族よりも強い気がした。

「今度は頭打って気絶なんてしないでよ、エリオット。僕ひとりじゃ連れて帰れないから」

そもそも、その時命があるかは分からないけど。内心自嘲して、リーオは言った。

「言うな。そう何度も同じヘマはしねぇよ……」
「うん。……約束して。……お願いだから」
「……リーオ?」

一人で入れば、二度と戻れない気がした。二人で入れば、たぶん大丈夫だと思えた。根拠は無い。無いけれど、よく分からない自信だけが、あまりにもはっきりと目の前にある。

「……進むよ」

言って、リーオはまがい物の迷宮に足を踏み入れる。この地に入って、最初に映し出されるのは広大な街並み。上品そうな衣装を纏った集団が楽しそうに歓談する姿は、まるで本当に周囲に人間がいるかのようだ。

ある意味見慣れた街並みをすり抜けて、風景の奥へと歩みを進める。何故だか道を誤っていることは理解出来たけれど、エリオットには告げずにあえて誤ったままの道を進んだ。通り抜け易そうな道の先の方が、あの子のような迷い人が迷い込むのには適している気がしたからだ。そのまま真っ直ぐ突き進み、突き当たりを右に曲がる。

「……そういや、どのチビが迷い込んだのか分かるのか?」
「うん、分かるよ。同じ子だ。……あの時と」

これだけ言い聞かせられていると言うのに、それでも迷い込むような性格の子供は、あの家に一人しか思い当たらなかった。リーオがあの家を出てから子供は増えていないはずだ。だったら間違いはないのだろう。

「ったく、人騒がせなチビだな。何だって同じところにそう何度も……」
「仕方ないんだよ。たぶん、あの子もサブリエの住人だから」
「……どういう意味だ?」

この道に「引かれる」かどうかは、当事者の性格にも起因するのだろうけれど、体質的なものもあるような気がする、とリーオは考えていた。もとより、この街には「違法契約者の血縁はアヴィスとの繋がりが強くなる」と迷信じみた一説がある。

リーオとて直接見たわけではないアヴィスを信じる気にはなれなかったけれど、少なくともこの街に生きている以上、危なげな何かと繋がりを持ってしまったとしても不思議は無いと思えた。

「なら、オレは何で迷うんだよ。おかしくないか?」
「出入りのしすぎじゃないの?休暇中なんて、暇さえあればここに来てたじゃない」

そう、だから、確かにこの街と結びついてもおかしくはない。そう思いたいところだし、今はそうはぐらかすことしか出来はしない。あの日の光景を見て、エリオットのその性質がそれほど悠長な理由に起因するだなんて本当は思わなかったけれど、どうしてあの凄惨な光景を直接伝えることが出来るだろう。

凄惨だった。いや、僕だって、実のところはそれだけしか覚えていないようなものなのだ。そう内心でごちて、リーオはあの日を思い返す。あの時エリオットがどうにかして、赤色に満ちた光景が広がって、僕がそれに何か返して。僕は泣いていた、ような気がする。これも、そのうち全部思い出すのだろうか。何故だかどうしても、思い出してはいけない気がする。

絶対の空白。――それが少し、恐ろしい。

「……って、あれ、エリオット?」

ふと気が付けば、今しがた隣に居たはずのエリオットが居ない。一瞬うろたえそうになって、たぶん別のところに飛ばされてしまったんだろう、とすぐに思いなおした。一連の行動のいったいどこにはぐれる要素があったというのだろうか。分からないけれど、今は不思議と大きな不安は感じない。

仕方が無いから、そのまま真っ直ぐ道なりに歩いてみる。数歩で目まぐるしく変化していくこの風景は、やっぱり尋常のものではない。やがて行き止まりを曲がって、リーオは突然足を止めた。――息を呑む。

「ここは――」

そこには、この世の物とも思えぬほど美しい桜の花が咲き誇っていた。同時に姿を現した目の前に建てられているこれは、いつか見たあの日と同じ洋館だ。あの時は桜など一切咲いてはいなかったけれど、形状が記憶のものと完全に重なる。――また、同じところに出た。

「――おや、お客さんかな?」
「……!」

目の前に広がる景色を、感心とも、困惑ともつかないまま眺めているうち、ふいに傍から声が飛んでくる。驚いてリーオが身構えてみれば、姿を現したのは、物腰柔らかな金の髪の青年だった。

「やあ。君が探しているのはこの子かい?」

丁寧に抱いたその子を目線で示して、現れた青年はゆるりと笑う。その出で立ちは、清楚でありながらもどこか浮世離れした風だった。――この世のものではないような、あるような、そんな感覚。

「ああ、うん。そうだけど……そもそも君、誰?」
「うーん、名前は何でも構わないよ。名乗るほどの者じゃないんだ」

問われて、金に輝く髪を揺らし、エメラルド色の瞳で微笑みながら青年は言った。見覚えも無いし、こんな場所に住む人間が居るはずはない。そう思いながらもこの世に存在するような気にさせられる、彼が一体何者なのか、リーオにはよく分からなかった。

ただ、もしも彼がどこかの高名な貴族だったとして。彼は周辺の大まかな事情以外をよくは把握していなかったから、別段知らずとも無理はないだろう。

「そう言われても、という顔をしているね。……じゃあ、ジャックと呼んでくれないかな。みんな私をそう呼んでいるから」
「……ジャック?ふーん、君はそういう名前なんだ」
「珍しいかい?確かに、私は最近の人間ではないからね。無理もないかもしれないけれど」

ジャックと名乗った青年は、暗にこの世に存在しているわけではない、とでも言いたげな語調でそう言った。吹き抜ける風がひどく穏やかに桜を揺らして、あたたかな陽だまりが胸にひたすら心地良い。以前ここへ来た時とはあまりにも違う感覚に陥って、リーオはひどく戸惑った。

不安定で、気を抜けば足のすくみそうな不安感。それと真逆の平穏は、もしかするとこの人が居るせいだろうか、という気がする。

「……ところで、君はどこから来たんだい?」

先ほど姿を現したリーオに一瞬訝しげな表情を浮かべそうになって、ぎりぎりのところでジャックはそれを留めておいた。彼の纏う雰囲気は、アヴィスから漏れる、あの冷たい感覚によく似ている。

一方的に問うことは、ジャックに少しの罪悪感を生じさせた。ここを出ればたぶん、彼は全てを忘れるだろう。そういう風に出来ているのだ、この場所は。特にジャックの目の届く範囲なら、意図的に全てを忘れさせてしまうことだって出来る。

――致し方ない。まだ、本当の意味で人前に姿を現すわけにはいかないのだから。

「フィアナの家って言うところだよ。……知らないかもね、本当に君が今の人間じゃないんだったら、だけど」
「……驚かないのかい?私が過去の人間と知っても?」
「順応早いってよく言われるんだよね、僕。……ううん、感動が少ないだけかもしれないけど」

自嘲気味にそう言って、リーオは少し視線を流した。ジャックは眠ったままの迷い子を静かに傍に下ろしてやって、壁にもたれかからせるように体勢を整えさせる。幼子には、この場所は少々刺激が強い。外からやって来た彼らに眠りを誘発するらしいということは、ジャックも最近知ったばかりだ。

「サブリエにあるんだ、そこ。その子がここに迷い込んだって言うから探しに来たんだよ」
「……ここへ来たのは君と、もう一人居るね?」
「へぇ、そんなことまで分かるんだ?」
「そうだね、私がここに居るうちは分かるよ。けれど、私はずっとここに意識を留めておけるわけではないんだ。その間に此処へ迷い込んだ人を救ってはあげられない。……たまたまここで帰ることの出来なかった人たちを見つけると悲しくてね。……とても、かなわないよ」

切なげに瞳を伏せて、ジャックは言った。言って、箱庭の中にそれとなく意識を向けてみる。もうひとり、彼と一緒にやって来たらしい少年がこの空間の中のどこかに居る。――けれど不可解だ。何故だかそれは、とてもよく見知った気配に似ている、ような気がする。気のせいだと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが――けれど、これでは、まるで。

「……もしかして、前にも一度来たことがあるかい?はぐれてしまった少年も一緒に」
「前に?――あるよ。でも、その時はこんな風じゃなかったな。ジャックは居なかったんじゃない?」

すると、あれは気のせいではなかったということだろうか。ジャックは以前一度だけ、ひときわ強い二人分の気配に出会ったことがあった。その片方に彼の――グレンの気配を一瞬感じた気がしたのだけれど、おぼろげなせいで違うという気もした。たしか、あの時は彼の残滓だろうと片付けたのだ。ちょうど力を酷使して、ひどく弱っていたから。

そこで気付く。いや、そもそも、だ。この少年は何故その時のことを記憶しているというのだろう。本来は野暮な質問だったはずなのに、まともに返されて疑問に思うことを忘れていた。この地は混沌。だから、夢のような、うつつのような感覚でいるうちに、やがて全てを忘れてしまう。それなのに、どうして。

「しっかし、陰湿だよね。別に見たくないもの、いろいろ見せられたら参っちゃうよ」
「……どんなものを見たか、聞いてもいいかな?」
「記憶だよ。昔の」
「……記憶?」
「とは言っても、僕もここに来た時のことを全部覚えているわけじゃないけどね。小さな子が泣いてて、何かが堕ちていく記憶。この間まで夢の中の話だって思ってたけど、そうじゃない。――あれは、記憶」

その子供が自分だとは、リーオはあえて告げなかった。全てを見透かすようなその瞳には無駄な足掻きのような気もしたけれど、伏せておくことで、気持ちの上ではいくらか救われる気がしたから。

黙って聞いて、ジャックはさらに違和感を募らせる。いくら自分が居なかったからと言って、これほどまでに鮮明に記憶を残すことが出来るものだろうか。現実と非現実の境界線上に位置するこの場所は、先ほど迷い込んできたあの子供がそうであるように、力を持たなければまともに動き回ることすらかなわない地だ。

見たところ特別なものは持ち合わせていないように見える彼だけれど、ならば一体、何が彼を強く繋ぎ止めているのだろう。唯一気になるのは、少しばかり漂うアヴィスの冷気。――あるいは、彼はそれほどまでにアヴィスと近い存在、だとでも言うのだろうか。

「君は――」

何者なんだい? ふとジャックはそう聞きかけて、止める。彼自身が分かっていないのかもしれないことを、聞いてどうなるものでもない。影がある。この子には、とても、他人が一切入り込めないような。

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