薄命なプラナス-4-

「……どこに出たんだ?」

リーオとはぐれて遠方へ飛ばされたエリオットは、立ち止まって静かにあたりを見回していた。案外と落ち着いていられるのは、同じ状況が二度目だからなのだろうか。それにしては、一度目とは心に落ちる温度が違いすぎるような気もする。

一度目はもっと不安感というか、立っているだけで何かに飲まれて行きそうな、そんな危うい感覚があったのだ。けれど、今回はそれよりもずっと穏やかなままで居ることが出来る。

「――何を、お考えなのかしら、グレン様は……」
「ん?」

ふと耳に届いた声にエリオットが振り返ると、そこには見知らぬ人間が蒼白な表情で立ち尽くしていた。そこは先ほどエリオットが通って来た道だったから、どう考えても先ほどまではそこに人間など居はしなかったはずなのだが、けれど、今は間違いなくそこに居る。

ふいに現れた人影は見たところ女で、見た目に派手なピンクの髪をしていた。赤色の瞳――それにどこか危うげな真紅のローブを身に纏って、これほど近いのに、こちらに気付いている様子はない。

「おい、お前は何者だ?」
「殺す?従う、けど……でも、どうして……?」

声が通る距離まで詰めて、少し遠巻きにエリオットは問いかける。それに気が付く様子も無いまま、疑問を浮かべる彼女の声は震えていた。

「……聞こえていないのか?」

それから二、三度問いかけて、エリオットはさらに近くへ足を運ぶ。けれども、彼女が気付く素振りは未だ一向に無かった。常識に照らし合わせてみても、この距離で何の反応もせずに無視することは、とてもではないが不可能だ。

どうやら本当にこちらの声が届いていないらしいと知って、エリオットはそれきり尋ねるのを止める。これも、夢ではなく何らかの記憶なのだろうか。けれど、これは明らかに自分のものではない。

「ロッティ!ここに居たのか」

目の前で繰り広げられる幻影に疑問を浮かべ続けているうち、唐突に男がひとり現れた。とは言ってもエリオットからはちょうど見えない位置に彼は居て、そこからではその人物がどんな出で立ちをしているのかはよく窺えない。そうしてどこか焦っている風な口調で呼びかけた彼を、ロッティと呼ばれた彼女は飛び上がるようにして振り返った。

「……ジャック!?どうしたのよ、こんなところで」
「グレンを知らないかい?会いたいのだけれど……出来れば、今すぐにでも」

言って、ジャックはロッティの瞳をしかと見つめる。やがて揺れを見透かされまいとして、彼女はそこから迷いを消した。

「――いいえ。……知らないわ」
「そうか。……分かった、ありがとう」

唐突に現れた男は名をジャックと言うらしく、グレンと言う人物に会いたいと性急に告げた。ロッティの方はどうやら彼の用件を心得ているようで、穏やかな笑みに主の居所を包み隠してしまう。

ロッティはそれがかえって彼女の偽りを露見することになるのだと知っていたけれど、それでジャックが彼女を責めることはないだろうということも、また十分に知っていた。あくまでそういう男なのだ。よく言えば実直で心優しい――悪く言えば諦念の強い。

「……無理にでも聞こうとはしないのね?さすがアンタだけあるわ、ジャック」
「おや、褒め言葉かい?ロッティのように美しい女性からならいつでも大歓迎なのだけどね、私は」
「……相変わらず食えない男。……ねぇ。この先、とんでもないことになるわ。だから私とアンタが話すのはもうこれきりにしましょうよ。次に会ったとき、私とアンタは見知らぬ人間。私が何をしても、アンタが何をしても、お互いに決して構いはしないの。……いいでしょう?」

常々結っていた髪は解かれたままで、軽装に紅色の衣を纏った彼女そのものが、どこか不吉の象徴をしているのだと言うことにジャックは気が付いていた。親友と呼べるはずの彼が何をしようとしているかは未だに分からなかったけれど、何か良からぬことが起こり始めているのだと言うことくらいは分かる。――それも絶対的に。

目の前に繰り広げられる張り詰めた空気に見入って、傍らのエリオットは固唾を呑んだ。重大な何かに触れているような気がするのだが、けれど、これが一体何の意味を持つのかは皆目検討も付かない。

「……そうだね。その方がいいかもしれない」

ゆるく笑って、ジャックは彼女へ別れを告げる。結局声しか聞き届けることはかなわないまま、正体不明の記憶もまた、エリオットの前から姿を消した。




「……今、この場所はアヴィスへ続くと言われているそうだね。君は、それを知っているのかい?」

自身の疑問を一度余所に置いて、ジャックは尋ねた。百年前のサブリエの悲劇――現代においてあの事実が風化し、今や子供騙しの伝承になっていることは、彼も重々知っていた。けれど、それについての詳しいことは何一つ、ここから窺い知ることが出来ないのだ。

「この道?……ああ、有名な話だよね。サブリエの悲劇でこの街には大きな穴が空きました。そこから堕ちた不幸な人間は、アヴィスと言う地獄へ誘われてしまうのです。――そういうおとぎ話。あの家で何度聞かされたか分からないよ、もう」

そこでは報われなかった魂が玩具に形を変えて、次の罪人を待っているのです。自らの罪を認めず、牢獄から出ようともがき、弱きものを喰らい自らを見失う。二度と光の差さない空間は絶望にまみれて、やがて、それらは世界を争いだらけの闇に変えていくでしょう――。

これはどこかで読んだ、アヴィスの伝説をモチーフにした小説の一節だ。出会ったのがナイトレイ家の書庫だったか、それともパンドラの本部だったかは忘れてしまったけれど、あまりにも周囲の蔵書に似つかわしくなくて、何とはなしに手に取った本だった。

(おとぎ話――なるほど。いかにもそれらしい伝承の仕方だね)

傍らでひとりごちて、ジャックは少し考え込むような仕種を取った。現実の悲劇が曲げられ風化していくさまを目するのは、とても複雑な気分だった。自分こそがあの一瞬を生きていたはずなのに、今ではあの悲劇の概要もひどく現実的なものに変わってしまっている。

一般的に見て、百年前の現実の方がずっと異常であることはたしかだ。「ただの大量虐殺」――そちらの方が常識に見合わせれば余程筋が通るし、まさかこちらに百年前の人間が生きた姿で時を渡って来ているだなんて、それこそ誰も信じないだろう。

ひとしきり考えるだけ考えて、ジャックはそのまま黙り込む。いくら彼の記憶が失われてしまうとは言えど、さすがにそれを――悲劇の実情を口にすることは躊躇われた。

「――ねぇ、ところでここ、季節は変わるの?」

そのまま次の言葉を考えかねていたジャックに、リーオがふと疑問を呈す。ひたすら隠し事ばかりの自身に罪悪感は募ったけれど、これにはジャックも素直に助かった、と思えた。

「いいや、私がいる間はいつもこの季節だよ。この場所に四季は無いんだ。――ここは、ある女の子の記憶だからね」
「記憶?」
「この道は、いろいろな人の記憶で構成されているんだ。簡単に言えば私はその理から少しばかり抜け出してしまった存在でね、ある方法を使わなければここからは出られない。だから、君が過去に何らかの記憶を目にしていたとしても不思議はないと思うよ。……ただ、それが正しいものか、正しくないものなのかは、私には分からないのだけれどね」

ここに迷い込んだ人々が触れる記憶は、個々の精神状態にひどく依存しているようにジャックには思えていた。一から十を幸せに生きてきた人間は、そもそも此処に迷わないのだ。だから傾向としては、各々が持つ一番心に重い記憶が展開される。

そして、それらすべての核を為しているのは少女の記憶だ。無邪気な女の子の――アリスの記憶。

あの記憶がいわば中核で、この力が全てに波及し、アヴィスとあいまってこの空間を歪めていると言っても過言ではない。彼女の記憶はとても残酷なあの日の映像を抱えたまま、今だって、どこに居るかも分からない当人の迎えが来るのを待ち続けているのだ。

あの記憶の中枢にたどり着くことが出来る人間には、みな同じ特徴がある。理屈自体は実に単純明快。迷い込んだ人間があの記憶の登場人物、すなわち当事者であること。もしくは――何らかの形でアリスに関わっていること。

「つまり、あの記憶は僕の……迷い込んだ本人の作り話の可能性もあるってこと?なんか、適当な空間だよね」
「……そうだね、本人が登場する記憶に関しては何らかの形で曲げられているということもある。けれど、まったくの他人が出てくる記憶は、過去に積み重ねられた現実のものだと思って構わないよ」
「……どういうこと?」
「要するに、受け手が現実には起こっていないはずの出来事を目にしても、その出来事は結局、その人の何らかの記憶が基本となって捻じ曲がっているに過ぎないんだ。だから、それは多少なりとも現実で、まったくの作り話には成り得ないってことだね」
「なるほどね。見ていないものは作り変えようがないってこと」
「そういうこと。他人の記憶に干渉することは出来ないんだ。だから、それは紛れもなく真実なんだよ」

一通り聞き入って、ジャックへ伝わらない程度にリーオはごちる。それなら、エリオットはどうなのだろう。彼は、この地でいつもの夢と同じ映像を見たと言っていた。それは、いつか起こった過去の記憶なのだろうか。それとも彼によって歪められた、紛れも無い彼の記憶なのだろうか。

「――行かなくていいのかい?彼は、もしかすると迷っているかもしれない」

ぼんやりとした風のリーオへ、ジャックは優しげに問いかける。どうやらもう一人の感知が少しばかり遠のいているようだ。自分が居る限りは滅多なことにはならないだろうが、長くこの場所にたどり着けなければ、あまり良い目には遭わないかもしれない。そう思って。

本当は、先から気配が肌に触れるこのもうひとりの少年のことを、ジャックは衝動のままに尋ねてしまってみたかった。似ているのだ、ひどく。けれど、全くもって違うような気もする。そんなはずはない、と心が叫ぶ。先から何度繰り返しても、空回るばかりで答えが出ない。

「……見つけてあげられるのは、たぶん君だけだと思うよ」

浮かぶ自らの疑問を振り切って、ジャックは彼を促した。

「彼を見つけたら、私に話しかけておいで。頭の中で思い描けば届くはずだから。……そうしたら、この子と一緒に入り口まで送ってあげよう」

それにこくりと頷いて、リーオは的確な方向へと走り去っていく。何ひとつ示してはいないのに正しい方へ向かって行けるということは、日頃から、彼らは余程の信頼を寄せ合っているのだろう。

此処では繋がりの強い人間ほど、より強く惹かれあうことが出来るから。

「グレン、君は一体――」

あとに残されたジャックは取り留めもなく呟いて、言葉は風にかき消える。変わり映えのしないこの場所は、今日も流れゆく花びらがただ美しい。

美しいものや、愛おしいものは――こうやって、ひどく薄命だ。

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